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June 16, 2025

沖澤のどか指揮東京都交響楽団、フランク・ブラレイ、務川慧悟

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●14日昼はサントリーホールで沖澤のどか指揮都響。沖澤のどかは都響主催公演初登場。チケットは完売。プログラムはドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、プーランクの2台のピアノのための協奏曲(フランク・ブラレイ、務川慧悟)、ストラヴィンスキー「春の祭典」。「牧神」はフルートのソロから、「春の祭典」はファゴットのソロから始まるという対照がある。「牧神」のフルート・ソロは元OEKの松木さや。柔らかくまろやかな音色で始まり、続くオーケストラもベールのかかったような幻想的な音色で応える。官能的というよりは夢幻的な「牧神」。プーランクはブラレイと務川の師弟共演。洒脱。はじけている。プーランク作品、遊び心いっぱいの洗練された曲だと思うんだけど、ときどきネジが外れて一歩踏み外しそうな危うい雰囲気も感じる。曲のおしまいのフレーズは日常に帰るための「なんちゃって~」という照れ隠しに思える。アンコールに同じくプーランクの「仮面舞踏会」によるカプリッチョ(務川、ブラレイ)。
●後半のストラヴィンスキー「春の祭典」は文句なしの快演。精緻で明瞭、最強奏でも響きのバランスが崩れない。キレもありスリルもある。指揮は明快で無駄のない動きでオーケストラをリード。もはや驚きではないけど、日本のオーケストラでこれだけハイレベルの「春の祭典」を聴けることにあらためて感慨。第1部の「賢者の行列」でのすっきり見通しのよい立体感、心持ち長めの沈黙を経てゆっくりとした「賢者」から、躍動感あふれる「大地の踊り」へと突入するあたりの流れは鳥肌もの。客席の反応も上々で、指揮者のソロカーテンコールに。
●ストラヴィンスキーが「春の祭典」でさまざまな民謡を素材に用いていることは近年よく耳にするが、民謡の採集といえばバルトーク。「バルトーク音楽論選」(ちくま学芸文庫)の「ブダペストでの講演」なかで、バルトークはストラヴィンスキーについてこんなことを言っている。

 ストラヴィンスキーは主題の出典をけっして明かさない。主題が果たして民俗音楽から取られたものなのか、自分で考え出したものなのか、作品のタイトルにおいても脚注においても、けっして触れようとしないのだ。この習慣は古い時代の作曲家たちの習慣を思い起こさせる。というのは彼らも同様に、この種の情報について大抵、完全な沈黙を貫いたからである。そのことはたとえば「田園」交響曲の冒頭を思い出せば十分だろう。
 ストラヴィンスキーは明らかに確信を持ってそのようにしている。そうすることで彼は、作曲家が曲中で自身の考え出した主題を使っているのか、それともよそから借りてきた主題を使っているのかは、全く副次的な事柄であることを示そうとしているのだ。(中略)用いられた素材や主題の由来の問題は全く副次的な事柄であるとするストラヴィンスキーの意見は、完全に正しい。

一瞬、ストラヴィンスキーのことをディスるのか?と思わせておいて、完全同意しているのであった。

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