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Books: 2023年8月アーカイブ

August 22, 2023

キューブリックの「シャイニング」、キングの「シャイニング」

●映画「シン・仮面ライダー」を観るためにAmazon Primeに入っていたのだが、結局、Prime Videoはめったに観ないとわかったので解約……するのだが、その前にふと気になって、スタンリー・キューブリック監督の映画「シャイニング」を観る。大昔に観てはいるのだが、記憶も薄れていたし、今だからわかることも多数。有名な話だが、「シャイニング」の原作者スティーヴン・キングは、キューブリックの映画にまったく納得がいかず、ついには自身の脚本でテレビドラマ版「シャイニング」を作っている(これはこれで秀逸)。ワタシはキングの初期傑作群に対してシンパシーが強いため、「シャイニング」についても原作の肩を持ってしまうのだが、それでもキューブリックの映画がまれに見る傑作であることはまちがいない。
●なんといっても映画には映像による直接的な表現があるので、オーバールックホテルがどんな立地にあるのか、雄大な大自然の光景からはっきり伝わってくる。例の双子の女の子の怖さも映像ならでは。で、今回改めて思ったのは、映像に加えて音響もとてもよくできているということ。冒頭の「怒りの日」のテーマや、バルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」など、音楽の効果的な使用に加えて(使用曲一覧はこちら。ペンデレツキやリゲティ等)、ダニーが乗っている三輪車がキコキコと鳴る音とか、ジャックがタイプライターを打つ音とか、壁にボールをぶつける音とか、どれもこれも音が不穏で怖い。斧を扉に振り下ろすジャックよりも、三輪車のキコキコのほうがよっぽど怖い。
●「シャイニング」は原作と映画で肝心の部分が違っているのに、どちらも歴史的傑作になった珍しい例だと思う。キングの原作は父と子、夫と妻といった家族の物語であって、善であろうとする父が次第に悪に蝕まれていくところに真の恐怖がある。亡霊から酒を勧められるのもアルコール依存症という設定があるからで、これも人によっては相当に生々しい話なんじゃないだろうか。

参照:キングのTV版「シャイニング」その1その2

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P.S. 昨日で当サイトの開設28周年だった。多謝。実はここはGoogleよりもAmazon.co.jpよりも古くからある。

August 18, 2023

「新訳 オセロー」(シェイクスピア著/河合祥一郎訳/角川文庫) その2

●(承前)先日、ヴェルディの「オテロ」をきっかけにシェイクスピアの「新訳 オセロー」(河合祥一郎訳/角川文庫) の話を書いたが、その続きを。デズデモーナとオセローは肌の色が違うことに加えて、年齢差もかなりあるというが、実際どれくらいの差かというと、訳注によればデズデモーナはおそらく10代、オセローは40歳近いと推定されている。当時の記述では「40歳は老年の始まり」だという。で、ヴェルディのオペラ「オテロ」で考えてみると、オテロが老年の始まりにあるというのは、まあそうかなと思うのだが、デズデモーナが10代という感じはまったくしない。むしろ成熟した女性というイメージ。「柳の歌」にティーンエイジャーの雰囲気はない。
●シェイクスピア「オセロー」で、いよいよデズデモーナがオセローに殺されそうになる場面で、デズデモーナは「まだ死にたくない」「殺さないで!」と命乞いをし、さらに「殺すのは明日にして、今夜は生かしといて!」とお願いし、それも許されないとなると「30分でも!」と懇願する。それまで本気では自分の身を案じていなかったデズデモーナが、「えっ、この人、マジだったんだ!?」と動揺している様子が想像できる。このあたりに10代女子感があるかも。
●もうひとつ。フォークナー「響きと怒り」(平石貴樹、新納卓也訳/岩波文庫)の第3章でジェイソンはこう語る。

俺は一人前の男なんだし、我慢だってできるんだ、面倒を見てるのは自分の血を分けた肉親なんだし、俺がつきあう女に無礼な口をきく男がいたら、どうせ妬んで言ってることは目の色を見りゃあわかるのさ

この目の色とは緑だという話を以前に書いた。嫉妬する者は緑色の目をしているというのは「ヴェニスの商人」が出典だということだが、「オセロー」でもイアーゴーの台詞にこの表現が出てくる。

ああ、嫉妬にお気をつけください、閣下。それは緑の目をした怪物で、己が喰らう餌食を嘲るのです。

●じゃあ、なんで嫉妬する者の目の色は緑なのか。それが引っかかっていたのだが、河合祥一郎の訳者あとがきで、これが古代ギリシャの四体液説に由来するとあった。人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つからなるとされ、嫉妬は不機嫌さを司る黄胆汁から生まれるというのだ。黄胆汁が多すぎると、人は短気で嫉妬深くなる。それで黄胆汁が緑がかった黄色であることから、嫉妬する者の目の緑になるという理屈らしい。
●でも、だったら緑じゃなくて黄色でよくない?と思わんでもない。

August 15, 2023

「君のクイズ」(小川哲著/朝日新聞出版)

●この小説、めちゃくちゃおもしろいんすよ。「君のクイズ」(小川哲著/朝日新聞出版)。生放送のクイズ番組でクイズプレーヤーである主人公はライバルと決勝戦を戦うが、まだ問題が一文字も読まれていないのにライバルがボタンを押して正答し、優勝する。なぜそんなことが可能だったのか。クイズ小説であり、上質のミステリーでもあって、読みだしたら止められない。長くないので一気に読めるのも吉。小気味よく、読後感もいい。
●で、これは話の本筋には影響しないエピソードなので紹介しちゃうけど、クイズの回答としてトルストイの「アンナ・カレーニナ」が出てくる場面がある。有名な書き出し(幸福な家庭はみな~)を出して、作品名を答えさせるといういかにもクイズらしい問題。主人公はそこから思いを巡らせ、中学生時代に考えた古い物語を呼び起こす。あるところにカレー屋のインド人がいたが、店に客が入らず困っていた。そこで伝説のスパイスを探す旅に出かけた。インド人は命がけでようやく伝説のスパイスを手に入れた。そしてこのスパイスを用いて新たなカレーを作る。一口食べて、インド人は言葉を失う。ぜんぜんおいしくない。「あんなカレーに……(命をかけるなんて)な」。
●それで思い出したのだが、以前ワタシが人から聞いた「アンナ・カレーニナ」の話は少し違う。美貌のアンナは政府高官の妻だったが、ある若い将校と出会い、熱愛する。アンナはすべてを捨てて、将校のもとに走る。しかしやがて将校と気持ちがすれ違うようになり、ほかの女に愛情が移ったのではないかと疑う。どうやらこの男は最初に自分が見込んだほどの男ではなかったようだ。絶望したアンナはつぶやく。「あんな彼になあ……」
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●世間は夏休みなので、今週は当ブログも不定期更新で。

August 8, 2023

「マイ・ロスト・シティー」(スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳/中央公論新社)

●少し前にNHK100分de名著「ヘミングウェイ スペシャル」について書いたが、そこで触れられていたフィッツジェラルドの短篇「残り火」が気になって、この短篇が収められている「マイ・ロスト・シティー」(スコット・フィッツジェラルド著/村上春樹訳/中央公論新社)を読んだ。「残り火」にはいろんな点で圧倒されるんだけど(あのビスケットのエピソードがすごい)、自分にとっては少し「手厳しい」タイプの話ではある。この一冊のなかでは「失われた三時間」がいちばん好きになれる。主人公の男は20年ぶりに故郷に立ち寄る。といっても、滞在時間は飛行機の乗り継ぎのための3時間のみ。そこで、思い切って、12歳の頃に会ったきりのかつての憧れの少女の家に電話する。女性はすでに結婚していたが、同じ街に住んでいることがわかり、再会する。気まずい雰囲気になるかと案じていたが、話は弾み、少しいい雰囲気になってくる。だが、かつての思い出をたどっていくと、思わぬ展開が待っていた、というストーリー。こちらにも手厳しさはあるのだが、ユーモアがある。良質の「苦笑い」というか。
●この「失われた三時間」を読んで思い出したのは、ジョー・ヒルの短篇集「ブラック・フォン」に収められた「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」(以前に当欄で紹介した)。これも再会系のストーリーなのだが、男女の再会にゾンビ映画の撮影というシチュエーションを絡ませたところに独自性がある。もしかしてジョー・ヒルはフィッツジェラルドに触発されてこの話を思いついたのかも、と一瞬思ったが、そんなことないか。これもほろ苦いのだけれど、切なさを振り切ってしまうポジティブなエネルギーがあって、幅広い共感を得られる物語になっている。

August 7, 2023

「軽やかな耳の冒険: 藤倉大とボンクリ・マスターズ」(藤倉大、他6名著/アルテスパブリッシング)

●「ボンクリ」といえば毎年東京芸術劇場で開催されている「新しい音」が聴けるフェスティバル。盆とクリスマスがいっしょにやってきたような目出度い音楽祭だから「ボンクリ」……ではなくて、人は生まれながらにして創造的である、という意味でボーン・クリエイティブ、略してボンクリ。そのアーティスティック・ディレクターである作曲家の藤倉大が、6人の音の匠を招いて講義をしてもらい、それを踏まえて対談した一冊が「軽やかな耳の冒険: 藤倉大とボンクリ・マスターズ」(藤倉大、他6名著/アルテスパブリッシング)。招かれているのは、映画「蜜蜂と遠雷」の監督である石川慶、舞台音響のデザイナーの石丸耕一、演出家の岡田利規、レコード・プロデューサーの杉田元一、数々の著名ホールの音響設計で知られる豊田泰久、箏奏者の八木美知依。どの章もその道の匠ならではの話が興味深く、しかも、すいすい読める。
●いちばんおもしろいと思った章をひとつあげるなら、石丸耕一と豊田泰久による「コンサートホールにおけるPAを考える」。電気音響と室内音響の微妙な関係性や、サウンドデザインの難しさなど、ためになる話ばかり。「クラシックはPAを使わないから関係ない」と思うかもしれないが、話はそう単純ではない。コンサートホールだと残響が豊かなので、トークになると言葉が聴きとれないという経験はみんなあると思う。そういう場合に、マイクのスイッチを入れて音量をただ上げるんじゃなくて、子音成分を足すって言うんすよ。これって納得じゃないすか。で、オペラなんだけど、芸劇で2020年に上演された「ラ・トラヴィアータ」について、こんなことが書いてあって、ええっ、そうだったのかとびっくり。天井から幅4cm、長さ2mの棒みたいなスピーカーが下がっていたそうで、その役割についてこんなふうに説明されている。

石丸 ここから歌い手の声の子音成分だけを出しています。このコンサートホールは母音成分が豊かに増幅されるので、舞台上にしこんだ拾いマイクから歌い手の声のうち子音成分だけを抽出して、舞台上から歌声が届いていく時間差のディレイをかけて、子音成分だけを出しているわけです。すると、お客さんには生にしか聞こえないけれども、歌がちゃんと聴きとれるようになるわけです。

芸劇のオペラ、なんども足を運んでいるけど、ワタシはPAの存在を感じたことは一度もない。そしてPAの役割を「マイクのスイッチを入れて音量を上げる」みたいな感覚で理解するのはまったくのまちがいだということがよくわかる。よくオペラ・ファンは「歌詞が聴きとれる/聴きとれない」といったことを話題にするけど、それは歌手の技術によるのか、サウンド・リインフォースメント(という言葉を石丸氏は使っている)のおかげなのか、そんなことも考えずにはいられない。
●ところでこの本、カバー挿画を見て「あ、これは!」と思ったら、やはり今井俊介作品であった。東京オペラシティアートギャラリーの「今井俊介 スカートと風景」展、演奏会の前になんども寄ったので。

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