
●25日は東京文化会館の小ホールへ。重鎮、工藤重典が率いる東京チェンバー・ソロイスツの第4回公演。工藤重典のフルート、森下幸路のヴァイオリン、中村洋乃理のヴィオラ、村井将のチェロ、リチャード・シーゲルのチェンバロによる室内楽の一夜。プログラムが最高で、聴きたい曲ばかり。編曲ものも含むが、前半がJ.C.バッハのフルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲ハ長調op.19-1、大バッハの「音楽の捧げもの」からトリオ・ソナタ、ジョリヴェのクリスマス・パストラル(fl,vc,cemb)、イベールの2つの間奏曲(fl,vn,cemb)、フランセの五重奏曲(fl,vn,va,vc,cemb)、後半がモーツァルトのディヴェルティメント第17番二長調K334より第1、3~6楽章(fl,vn,va,vc)。円熟味豊かな音の語らいをたっぷりと楽しむ。前半は一曲ずつ工藤重典がマイクを持って曲を案内するスタイル。
●クリスティアン・バッハで始まって、モーツァルトで終わるのは意図を持った構成だろう。クリスティアン・バッハからモーツァルトへの影響はよく指摘されるところだが、とくにこのフルート四重奏曲はモーツァルト的。モーツァルトの曲といってもよいほど……と言いたくなるところだが、実際にはモーツァルトのフルート四重奏曲がクリスティアン・バッハ的なんだと思う。細かく言うと、4曲あるモーツァルトのフルート四重奏曲のうち、第1番は正真正銘モーツァルト的なインスピレーションにあふれていると感じるけど、ほかの3曲はだいぶまだら模様というか、ホントにモーツァルトかなあ?的なところもちらほら。ジョリヴェのクリスマス・パストラルとイベールの2つの間奏曲の対比も吉。ジョリヴェ作品はこの題材なので呪術的魔術的雰囲気は控えめだけど、そうはいってもジョリヴェ。ジョリヴェとイベールにフォースのダークサイドとライトサイドの対照を感じる。そして、フランセに感じる量産型洒脱という才気。
●後半、モーツァルトのディヴェルティメント第17番K334は傑作中の傑作だと思うが、ホルン2本が入る原曲に対して、フルートと弦楽器による編成は異質。この編曲ではランパルが録音していたっけ。原曲にある秋めいた色調に代わって、フルートの清爽さが際立つ。第2楽章が省かれていたのは、時間の都合だろうか。この曲、自分は最初にカラヤン指揮ベルリン・フィルの録音で知って大好きになったのだが、今カラヤンを聴くと重戦車みたいなモーツァルトでたじろぐ(好きだけど)。
●アンコールに大バッハのシチリアーノ。カーテンコールの写真オーケーって書いてあったのに、うっかりして撮るのを忘れてた。惜しい。
2026年2月アーカイブ
工藤重典プロデュース 東京チェンバー・ソロイスツ Vol.4
川瀬賢太郎指揮名古屋フィル 東京特別公演 2026

●24日はサントリーホールで川瀬賢太郎指揮名古屋フィルの東京特別公演。プログラムは武満徹の「系図 若い人たちのための音楽詩」(語り:五藤希愛、アコーディオン:大田智美)、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。コンサートマスターは小川響子。「英雄の生涯」に英雄の伴侶が登場するので、この日のテーマは「家族」か。
●武満徹の「系図」は近年演奏される機会の多い曲だと思うが、ライブで聴くと編成の大きさにびっくりする。朗読中心の作品だから、ふつうに考えればコンパクトな編成でよさそうなものだが、厚い響きで、輪郭が少しぼやけたおぼろげなニュアンスを醸し出す。日常と非日常のあわいを感じさせるというか。谷川俊太郎の詩ありきの作品で、少女を通じて描く家族の肖像から見えてくる「平凡な物騒さ」にゾワゾワする。少女らしさを無垢に回収するのではなく、イラッと来る幼さまで表現されているのがこの詩。朗読は五藤希愛、15歳(!)。設定に合致した年齢だが、15歳でこんな大役を堂々とこなせることにひたすら感心。この役、18歳以上なら「若い女性」だと感じるけど、15歳だと本物の「子ども」。等身大の表現が詩に込められた危うさ、生々しさを伝える。
●後半の「英雄の生涯」は壮大でパワフル。完成度が高く、オーケストラの機能性が存分に発揮されていた。川瀬賢太郎らしい前へ前へと進む推進力は健在。気迫のこもった冒頭の後、「英雄の敵」に入るとフルートから始まる管楽器による嘲笑が思い切りよく、痛快。コンサートマスター演じる英雄の伴侶もまれに見る強烈さ、鮮烈さ。すごくうまい。描写性が高く、戦闘シーンはスリリング。全体としては陶酔感は控えめで、精悍でマチズモ的な英雄像が築かれていた。ビターテイストの「英雄の生涯」。
新国立劇場 ヴェルディ「リゴレット」 エミリオ・サージ演出

●23日は新国立劇場でヴェルディ「リゴレット」。エミリオ・サージ演出の再演。ダニエレ・カッレガーリ指揮東京交響楽団で、ウラディーミル・ストヤノフの題名役、中村恵理のジルダ、ローレンス・ブラウンリーのマントヴァ公爵、斉木健詞のスパラフチーレ、清水華澄のマッダレーナ、友清崇のモンテローネ伯爵他。声が強くて立派なリゴレットと、凛々しく抒情的なマントヴァ公爵というコンビ。ジルダは可憐ながらも強い娘。オーケストラは激情を煽るというよりは端正で、響きのバランスがとれており、過不足なくドラマを伝える。舞台は少し不思議なところもあるけど、基本的にはオーソドックスな演出。幕切れで上から降りてくる赤いシャンデリアとか後方に並ぶ女性たちはどう受け止めればいいのか。
●「リゴレット」はこれ以上はないというくらい痛ましい物語なんだけど、実は案外と抵抗なく観れる(「椿姫」のほうがずっとしんどい)。名曲ぞろいだから聴きたくなるというのもあるけど、やはり悲劇の主体であるリゴレットがイヤなヤツだから、結末への忌避感が薄いんだと思う。むしろジルダ側で観るというか。気の毒だけど、リゴレットはすべてにおいてまちがっている。権力者の側に立って他人を嘲笑する。娘を教会以外のどこにもいくなと家に閉じ込める毒親。その教会で公爵に見染められる。娘に止められても復讐のために公爵を暗殺しようとする。そして自分が雇った暗殺者によって、娘が殺される。モンテローネに呪われるまでもなく、最初から破滅が待っていた気もする。
●でも、リゴレットは真実の愛を知る男でもあるんすよね。亡くなった妻とは愛情で結ばれていたわけだし、ジルダという娘もいる。それに比べると公爵は孤独。権力によって放蕩を尽くしているけれども、ジルダと出会うまでは本物の愛を抱いたことがなかった。そのジルダが死んだのだから、モンテローネの呪いは公爵に対しても有効だったのだろう。この人はこれからもずっと権力だけを頼りに生きることになるにちがいない。「女心の歌」って、寂しい男の歌だと思う。
●最後の場面で、死んだはずの公爵が歌う「女心の歌」が聞こえてきて、リゴレットは幻聴かと疑う。でも、幻聴ではなく、公爵は生きている。そこで死体袋を開くと、身代わりになったジルダが入っている。あそこでジルダが歌うじゃないっすか。あのジルダの台詞こそリゴレットの幻聴だと思う。スパラフチーレとマッダレーナが何度も何度も刺してるのに、息があるはずがない。
●合唱がハミングで歌う嵐の場面から、嵐が収まるところの音楽は、いつもベートーヴェン「田園」の第4楽章から第5楽章に移る場面を連想する。
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●宣伝を。昨年に続いて今年もテレ朝POSTに第34回出光音楽賞受賞者ガラコンサートの取材記事を寄稿。長丁場の取材の成果。公演の模様は2月28日の「題名のない音楽会」(テレビ朝日)で放送される。
ヤクブ・フルシャ指揮NHK交響楽団のドヴォルザーク、ブラームス

●20日はサントリーホールでヤクブ・フルシャ指揮NHK交響楽団。プログラムはドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(ヨゼフ・シュパチェク)とブラームスのセレナード第1番。ドヴォルザークとブラームスという組合せは正攻法だが、選曲はどちらも有名曲を外してきた。とはいえ、ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲は近年、演奏機会がだいぶ増えているという実感あり。この曲、終楽章の主題が頭にこびりつくタイプで、こういった強いメロディを書くのはドヴォルザークは本当にうまい。ソリストはヨゼフ・シュパチェクという人。フルシャとともに「お国もの」。作品の魅力を存分に知らしめようとする情熱が伝わってくる。アンコールにドヴォルザークの「ユモレスク」(A.リーム編)を、ヨゼフ・シュパチェクと郷古廉のヴァイオリン、村上淳一郎のヴィオラ、藤森亮一のチェロで。よい雰囲気。
●後半、ブラームスのセレナード第1番は作曲者若き日の傑作。昔から好きな曲で、ひそかにこれがブラームスの交響曲第0番だと思っている(そして晩年の二重協奏曲が交響曲第5番)。楽章数や楽章構成はたしかにセレナードだけど、第1楽章のシンフォニックな響きと高揚感は完全に交響曲。フルシャは棒を使わずに精力的にオーケストラをリード、N響も気迫十分で大きなドラマを作り出す。ホルンが活躍する曲だが、首席ホルンはたぶん以前にも見かけたことのある客演の方。見事。
●カーテンコールの後は、すぐに帰る人と残って拍手をする人にわりとはっきり分かれた感じ。フルシャのソロカーテンコールに。
チョン・ミョンフン指揮東京フィルのウェーバー、ブルッフ、メンデルスゾーン

●18日はサントリーホールでチョン・ミョンフン指揮東京フィル。ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(岡本誠司)、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」という王道のロマン派ドイツ音楽プログラム。指揮者とオーケストラがぴたりと噛み合った充実の一夜で、格別の聴きごたえあり。「魔弾の射手」序曲は深い森を思わせるたっぷりとした響き。ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番では、岡本誠司が磨き上げられたソロを披露。技巧と情熱のバランスがとれた望みうる最高のブルッフ。改めて、奇跡の名曲だと思う。オーケストラもしっかりと鳴らして、豊麗なロマンティシズムを表現。これで十分満たされたが、さらにソリスト・アンコールがあって、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調BWV1001よりアダージョ。
●後半のメンデルスゾーン「スコットランド」もブルッフの流れを受け継ぐように、起伏に富み、情感豊か。終楽章にアタッカで入る際に、マエストロが片足を上げて入りを示したのがおかしかった。クラリネットのソロが達者。フィナーレは壮麗。楽員退出後も大勢のお客さんが残って拍手を続け、だいぶ待った後にすでに着替えたマエストロと楽員たちがみんなで再登場。
●余談だけど、「スコットランド」の終楽章、初版スコアだと楽章の頭にAllegro guerriero(戦闘的に、好戦的に)っていう珍しい指示が付いている。聴けばなるほど戦いの場面だっていうのは納得できる。で、ほかにも同じAllegro guerrieroの曲があって、それがブルッフの「スコットランド幻想曲」の終楽章。ハイランドの戦士のイメージが共有されているのか。
ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2026 記者会見

●18日は東京国際フォーラムでラ・フォル・ジュルネTOKYO2026記者会見。会場はホールD1で、ここで会見を行ったのは初めてか。音楽祭の顔だったルネ・マルタン不在での記者会見となり(後述)、ラ・フォル・ジュルネTOKYO2026運営委員会の榑林康治(三菱地所)、長谷川真(三菱地所)、近藤慶太(東京国際フォーラム)、梶本眞秀(KAJIMOTO)の各氏が登壇(写真右から)。
●今回のテーマは LES FLEUVES(レ・フルーヴ)─大河。世界各地の大河を切り口に音の世界旅行へと誘う。たとえば、ドナウ川、モルダウ川、ライン川などは、これに直結する名曲や大作曲家たちの名前がすぐ浮かぶと思う。さらにはヴォルガ川、ヨルダン川、ミシシッピ川、アマゾン川を巡り、多様な文化を背景とした作曲家たちに焦点を当てる。音楽祭のフォーマットは例年同様で、0歳児からのコンサートやマスタークラス、エリアコンサートなども。昨年賑わった弦楽器体感イベントLFJ Strings EXPOの第2回も開かれる。
●出演者陣はアンヌ・ケフェレックやアブデル・ラーマン・エル=バシャ、フランソワ=フレデリック・ギィといったおなじみのアーティストや、アリエル・ベック、ガスパール・ドゥエンヌ、ソフィア・リュウらのピアニスト、初来日となるフランソワ・ラザレヴィチ率いる古楽アンサンブル、レ・ミュジシャン・ド・サン=ジュリアン、セバスティアン・ブヴェイロンとアンサンブル・マニェティス他。日本のオーケストラの参加が多く、大阪フィル、仙台フィル、千葉交響楽団が招かれるほか、新日本フィル、東京シティ・フィル、東京21世紀管弦楽団、東京フィル、横浜シンフォニエッタが出演。全体として海外組が少なめなのは、昨今の目を疑うような円安を考えれば当然だろう(とくにユーロ円がひどい)。
●すでにフランスでの報道を目にしている人も多いと思うが、会見の冒頭にルネ・マルタンの件について説明があった。彼の事務所CREAにおけるハラスメント疑惑を受けてルネ・マルタンは音楽祭を離れており、先にナントで行われたラ・フォル・ジュルネはルネ・マルタン不在のまま開催された。日本のラ・フォル・ジュルネもこれを受けて、ナントと同様の形で開かれることになった。質疑応答の時間に、来年以降の形についてナントでの記者会見でなにか発表があったのではないかと尋ねたところ、ナントでは来年は別の人物をディレクターに立てて(だれかは明らかにされていないが、女性の音楽家であるという)、「ギャラクシー・ベートーヴェン」をテーマに開催すると発表された。今年の企画は出演者陣を見てもまだルネ・マルタンが手掛けたものが多く残っていると思われるので、ナントのラ・フォル・ジュルネが本当に新しい時代を迎えるのは次回からになるのだろう。質疑応答、および会見後の時間帯は、ルネ・マルタン不在の寂しさを共有する場でもあったようにも感じた。
尾高忠明指揮大阪フィルのオール・エルガー・プログラム
●17日はサントリーホールで大阪フィルの東京定期。指揮は尾高忠明で、得意のエルガー・プログラム。前半が「弦楽のためのセレナード」と「海の絵」(メゾソプラノ:林眞暎)、後半がペインの補筆による交響曲第3番。独唱者が当初予定のアンナ・ルチア・リヒターから林眞暎に変更になった。その「海の絵」は急遽の代役にもかかわらず堂々たる歌唱。まろやかで、深く重みのある声が魅力。この曲を聴くと、エルガーはワーグナーの後を継ぐマーラーの同時代人だと実感する。
●エルガーの交響曲第3番はアンソニー・ペインの補筆による問題作。作曲者は未完の草稿を燃やしてほしいと言ったとか。長い沈黙の後に書かれた最晩年の交響曲という点で、シベリウスの交響曲第8番のエピソードを連想するが、シベリウスのほうは暖炉にくべられて燃やされた(かもしれない)のに対し、エルガーは燃やされずに生き残り、ペインのおかげの日の目を見た。補筆といっても、補う程度で完成できる部分はごく限られているはずで、事実上、ペインとの共同作品だろうし、それでいいと思う。この作品の場合、交響曲第1番および第2番とは作曲年代も作曲家の置かれた境遇(アリス亡き後)も異なるわけで、もしエルガーが最後まで書きあげたとしても、新たな作風を見つけていたとしても不思議はない。すべては「ifの世界」。全体の大づかみのストーリーとしては、いくぶん枯れた世界をさまよい歩いた末に、フィナーレで元気いっぱいのお祭りが幻のように現れる。
●曲の終わり方が余韻たっぷりですばらしい。客席もしっかり沈黙して味わった。大フィルは完成度が高く、芯のある音でパワフル。
●なんとなく、ここにアンソニー・ペインのオリジナル作品を貼っておきたい気がする。アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団によるTime's Arrow。
確定申告とマイナポータル、e-Tax

●今年は光の速さで確定申告を済ませた。しんどい作業だが、先延ばしにしているとますます気が重くなるので、早く済ませたほうがよい。ま、そうわかっていても、できないときはできないのだが。
●青色申告をする個人事業者は、確定申告の前に、まず青色申告決算書を作らなければならない。一年分の売上も経費もすべて複式簿記で記帳する。これは普段から記帳をこまめにしておかないと、大変なことになる。以前は会計ソフトを使っていたが、今はエクセル簿記/ExcelBを利用している。秀逸なツール。
●かつては社会保険料などの証明書の類を税務署に郵送していたが、今はe-Taxを使えば紙の書類を送る必要はない。原則としてオンラインで完結する。で、その際にマイナポータルと連携すると、国民年金保険料や寄付金、医療費等の証明書が自動的に取り込まれるようになっている(なぜか国民健康保険料は取り込めないっぽいのが謎)。まあ、便利は便利なのだ。ただ、これがかなり煩雑で、事前にマイナポータル側で準備をしっかりしておかないと使えない。ブラウザ側にも用意が必要だし、マイナポータルからあちこちの外部サイトに行ったり来たりして、一個ずつ準備しなければならない。これ、なんとかやってるけど、この仕組みに付いていける個人事業者はどれくらいいるのかな……と思わずにはいられない。
●マイナポータルとかe-Taxとかねんきんネットとか、それぞれ異なる行政サービスの間をうろうろしていると「デジタルたらい回し」という言葉を思いつく。わけもわからず、こっちの窓口に行ったら、はい、次はこの書類を持ってあちらの窓口へ……って言われる感覚。もう少し自分の理解がしっかりしていれば、いいんでしょうかね。
ケレム・ハサン指揮読響のウンスク・チン、ベートーヴェン、マーラー

●13日はサントリーホールでケレム・ハサン指揮読響。ウンスク・チンの「スビト・コン・フォルツァ」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番(中川優芽花)、マーラーの交響曲第1番「巨人」というプログラム。ウンスク・チン「スビト・コン・フォルツァ」はベートーヴェンへのオマージュ。冒頭、「コリオラン」序曲のモダン化バージョンみたいに始まり、随所にモダンに変容されたベートーヴェン的なフレーズがさしはさまれる。「スビト・コン・フォルツァ」という題からしてベートーヴェン的。初めて聴いたけど、よく似たアイディアで書かれたイェルク・ヴィトマンの「コン・ブリオ」を思い出す。どっちが先に書かれたのかな……。いや、そういう問題じゃないか。
●ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番では初めて聴くピアニスト、中川優芽花が登場。ものすごく上手い! 第1楽章の冒頭から一気に引き込まれた。粒立ちのよいタッチで細部まで磨き上げられている。ひとつひとつのフレーズが精彩に富み、決してウェットにならないが、陰影は豊か。第2楽章もみずみずしい。終楽章はもう少し覇気があってもとは思ったが、古典派協奏曲でこれだけ聴かせられる人はなかなかいない。機会があればモーツァルトも聴いてみたいもの。アンコールはメンデルスゾーンの無言歌集Op.67-2。後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」。まっすぐ爽快。第1楽章は少し抑制的な気もしたが、第2楽章は切れ味十分、第3楽章の「ぐーちょきぱー」はコントラバスのソロで。第4楽章は勢いよく、一気呵成のフィナーレ。
ポケモンと人間の関係について
●雑誌「SWITCH」3月号の特集は、ポケモン30周年を記念して「ポケモン百景」なのだとか。30年でポケモンの世界がここまで大きく広がったことには驚くばかり。実はわりと最近になって知ったのだが、ポケモンの世界には人間以外の動物が存在しない。動物がいない代わりに、ポケモンたちが棲息するという設定なのだ。となると、食物連鎖はどうなっているのか、疑問がわく。ポケモンの世界で食事シーンが描かれた場合、そこで食べているものが一見、肉に見えたとしても、実は大豆ミートなのかもしれない。全員ベジタリアンなのか、あるいは人間がポケモンを食べることもあるのだろうか。
●私たちの世界には動物と植物がいる。ポケモンの世界には、人間とポケモンと植物がいる。が、この設定は少し奇妙ではある。生物には人間、ポケモン、植物の3種がいるとしたら、人間は唯一の動物ということになるが、それではどんな進化の筋道をたどったのか、説明がつかない。となれば、人間もポケモンの一種と考えるのが合理的だろう。実際に、ポケモンのなかかには、ユンゲラーのようにもとはエスパー少年だったとか、ゲンガーのように人間のなれの果てだとか、人間が変化した種がいくつかあり、あちこちで近縁種としてつながっていそう。生物はポケモンと植物の2種類。そう考えると、すっきりする。人間はおそらくノーマルタイプ。
●それで思い出すのは、ジーン・ウルフ著「ケルベロス第五の首」(柳下毅一郎訳/国書刊行会)。注意深く読まないとなにを読んでいるのかわからなくなるタイプの巧緻な小説で、よく難解と言われる作品だが、この物語にはサント・クロアとサント・アンヌという双子惑星が出てくる。サント・アンヌにはかつて姿を自在に変える原住種族がいたが、植民した人間たちによって滅ぼされてしまったとされている。が、異説として、実はサント・アンヌの種族たちは人間に姿を変え、人間を滅ぼして自分たちが人間として生きるうちに、出自を忘れてしまったのだとも言われる。人間とポケモンの間にも似たような関係があるのかもしれない。
東京オペラシティアートギャラリー 「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」

●現在オペラシティのコンサートホールが休館中なので、演奏会のついでにアートギャラリーに立ち寄るというわけにはいかない。が、「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」をぜひ見たかったので初台へ。アルフレド・ジャーはチリ出身で、ピノチェト独裁政権を逃れてアメリカに渡ったニューヨーク拠点のアーティスト。非常にメッセージ性の強い作品ばかりで、とりわけ社会の不均衡や政治的集団的な暴力を扱ったものが多い。

●で、これは音楽ファンにも気になる作品だと思うのだが、「彼らにも考えがある」(2012)。手前の丸いオレンジ色は別の作品で(スマソ)、後ろのライトボックスに OTHER PEOPLE THINK と書かれているのが本作。これはジョン・ケージ生誕100年を記念して作られた作品で、ケージが15歳の頃にハリウッド・ボウルでのスピーキング・コンテストのために書いた演説文にちなんでいる。ケージの意図はともかくとして、この作品では「彼らにも考えがある(自分たちだけじゃなくて)」っていうニュアンスが込められている、らしい。文面からは別の受け止め方もありそうだが。

●こちらは「ゴールド・イン・ザ・モーニング」と題されたシリーズの一作。これだけ見てもなんにもわからないが、ブラジル北東部セーラ・ペラーダで金鉱が見つかって、一獲千金を求めて大勢の人々がやってきた。粗末な道具で過酷な労働に勤しむ人々を、撮っている。自発的な労働であるはずだけど、労働者への条件は厳しく、そこには明白な搾取の構造がある、ということを言っている。そう聞くと、じゃあこれはアートなの、素直にジャーナリズムじゃないの、っていう疑問はわく。アートとして読み取ろうとすればいろんな解釈も可能であるにせよ。

●日本を題材とした作品もふたつほどあった。これは「明日は明日の日が昇る」(2025)。ふつうの高さから見ると、床のライトボックスに日の丸があるのが見える。でも、近づいてのぞき込むと、上に星条旗があることに気づく。日米の非対称性がここに。ほかに「ヒロシマ、ヒロシマ」という大掛かりな作品も。

●いちばんいいなと思ったのはこれ。「写真はとるのではない。つくるものだ」(2013)。これは展示の入り口に置かれていて、ポスターが積みあがっている。で、ぜんぶ見た後で、帰りに一枚持ち帰ることになっている(ちゃんと輪ゴムまで用意されている)。減った分は、またスタッフが補充して、立方体に近い形状が保たれるようになっているようだ。喜んで一枚もらって帰った。写真はとるのではなく、つくるもの。みんな、知っている。
Jリーグ百年構想リーグが開幕。マリノスは町田相手に自滅
●Jリーグが開幕。といっても、通常のリーグ戦ではない。8月からの秋春制移行にともなって、今年前半は短期決戦の変則的な「Jリーグ百年構想リーグ」を開くことになった。J1は東西に分けて、地域リーグとしてそれぞれでホームアンドアウェイの総当たりをして、その後、東西同順位のチーム同士で戦って最終順位を決定する。対戦相手が限られているため、あまりワクワクするものではないが、目を引くのは90分で決着がつかない場合はPK戦をするという点。90分で勝てば勝点3、PK戦で勝てば勝点2、PK戦で負けても勝点1がもらえる。初期Jリーグを思わせる懐かしい方式だ。
●現代フットボールでは、勝てば勝点3、引き分けなら勝点1がスタンダード。これは試合の価値が、引き分けでは低くなることを意味する。勝敗がつけばその試合の価値は勝点3だが、引き分けなら両者合わせて勝点2にしかならない。クラシックなサッカーでは勝ったら勝点2、引き分けなら勝点1とシンプルだったので、いかなる試合にも勝点2が割り振られ、全試合が等価だった。で、今回の百年構想リーグでは、引き分けた場合にPK戦の勝者に2、敗者に1が配分されるので、合計の勝点は3。クラシックなサッカーと同じで、引き分けても試合の価値は下がらないのだ。だから数理的には引き分け狙いの戦術の優位性が高まる。とくに個の力で劣るチームは、スコアレスドローを狙ってリスクの少ないサッカーをするのがお得だ。
●となると、つまらない試合が増えそうだが、そこはJリーグもしっかり考えているようで、この大会では降格がない。弱いチームが降格を恐れて引いて守る必要はないのだ。負けても降格しないのなら、おもしろいゲームをしてお客さんを呼んだほうが利益になるかもしれない。
●昨季、マリノスは終盤にボール非保持のサッカーに徹して、残留を勝ち取った。だが、大島監督は今季、アタッキングフットボールへの回帰を掲げている。開幕戦はホームで町田相手に自滅して2-3で敗北。ボール保持率は59%と高かったが、なにせ前半に自分たちのミスだけで3失点したのだから、どうにもならない。そもそもポステコグルー監督以降のアタッキングフットボールとは、個の力で相手を上回っていることが前提になっていた。今のマリノスは、町田との開幕ゲームでも明らかなように、個の力で劣勢なのだ。ただでさえ戦力が足りなかった昨季から植中朝日まで失ってしまった。この戦力でアタッキングフットボールなどやれば、どれだけ失点することか。
●だが、大島監督は圧倒的に正しい。だって、降格がないのだ。フットボールの愉悦を犠牲にして、昨季の終盤みたいなサッカーを続ける理由はひとつもない。3点獲られたのは悔しいが、2点獲れたのはよいこと。思う存分、ハイリスクなサッカーにチャレンジして、ファンを熱くしてほしい。
フィリップ・ジョルダン指揮NHK交響楽団のシューマン、ワーグナー

●7日はNHKホールでフィリップ・ジョルダン指揮N響。パリ・オペラ座やウィーン国立歌劇場音楽監督を歴任してきたジョルダンがN響と初共演。お父さんのアルミン・ジョルダンはどっしりとした大柄な指揮者だったが、フィリップはすらりと長身痩躯。遠目にも見栄えがする。プログラムは前半がシューマンの交響曲第3番「ライン」、後半がワーグナーの楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」(ソプラノ:タマラ・ウィルソン)。すなわちライン川プロ。
●シューマンは推進力のある演奏。細部から練り上げるというよりは、外枠から大きな音楽の流れを作り出す。圧巻は後半で、得意のワーグナーはさすがの名演。きびきびと音楽が進み、もっさり度ゼロ。その点はヤノフスキが振る「東京・春・音楽祭」のワーグナーとも共通するが、全体のカラーはちがっていて、格段に壮麗で、甘美でもある。タマラ・ウィルソンのソプラノはまろやかで温かい声。尻上がりに熱を帯び、NHKホールの巨大空間と大オーケストラを相手に堂々たるブリュンヒルデ。歌い終わった後、まだまだオーケストラの演奏が続いてクライマックスがやってくるわけだが、その間もブリュンヒルデになりきっている様子が劇場っぽくてよかった。ハープ6台は視覚的に壮観。
●曲が終わった後、NHKホールで完璧な静寂が保たれたのはすごいこと。なにせ人数が多いので。大喝采と盛大なブラボーが続いて、客席は今年いちばんの盛りあがり。ジョルダンのソロカーテンコール、さらにタマラ・ウィルソンといっしょにふたりでカーテンコール。
METライブビューイング リヒャルト・シュトラウス「アラベッラ」(オットー・シェンク演出)
●東劇でMETライブビューイング、リヒャルト・シュトラウス「アラベッラ」を観る。オットー・シェンクによる伝統的な演出。俊英ニコラス・カーターの指揮で、題名役はロール・デビューとなったレイチェル・ウィリス=ソレンセン、マンドリカにトマシュ・コニエチュニー、ズデンカにルイーズ・アルダー、マッテオにパヴォル・ブレスリック、ヴァルトナー伯爵にブリンドリー・シェラット。さすがのMETで充実の歌手陣。とくに印象的だったのはマンドリカのトマシュ・コニエチュニー。英雄的で高貴で、でも土の香りのする人物像を表現する。このオペラをマンドリカの物語として堪能。表から見るとアラベッラのロマンスだけど、裏から見ると田舎紳士ファンタジーなのだった。
●映像であれ実演であれ「アラベッラ」を観たのは久々だったので新鮮な気持ちで楽しんでしまった。音楽もテキストも超高密度。シュトラウスの音楽は「ばらの騎士」と同様に真に陶酔的で精緻。さすがに映画館の音響設備でそのすべてを再現することはできないとはいえ、METオーケストラの精妙なサウンドをたっぷり楽しめる。幕間のインタビュー映像で指揮のニコラス・カーターを推していた。あと、第1幕のヴィオラ・ソロを受けて、幕間インタビューに首席ヴィオラ奏者が出てきた。稀有な例。
●「ばらの騎士」を観ると、自分の心のなかにオックスも元帥夫人もいることに気づくが、「アラベッラ」の場合は自分のどこを探してもアラベッラもマンドリカもいない。そんな高貴な人物、いない。いるとしたら、ヴァルトナー伯爵かな。大事な話をしているのに、カードゲームに戻りたくてしょうがない、かと思えば決闘騒ぎを引き起こす。
●ズデンカは「ズボン役」と呼びたくなるが、男装をしているだけで本当は女性という設定なのだから、そうは呼べない。「半ズボン役」か。
●「アラベッラ」の台本は第1幕の入念な歩みと比べると、第2幕と第3幕はやや駆け足気味になっていると感じる。
ジェームズ・フェデック指揮読響のブルックナー

●4日はサントリーホールでジェームズ・フェデック指揮読響。プログラムは細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」(諏訪内晶子)とブルックナーの交響曲第7番。当初の予定では前半が望月京のヴァイオリンとオーケストラのための新作(世界初演)で、指揮が鬼才マリオ・ヴェンツァーゴだったが、まず作曲家側の事情で曲が変更になり、その後ヴェンツァーゴの体調不良で指揮がジェームズ・フェデックに変わった。ぜんぜん知らない人だったが、フェデックはニューヨーク生まれの新鋭で、ブルックナーを積極的に指揮している模様。細川俊夫とブルックナーの両方を振れる代役を探すのはたいへんだったと思う。
●前半の細川俊夫「ゲネシス」は、ヴェロニカ・エーベルレの出産を祝って彼女とその息子への贈り物として書かれた作品なのだとか。タイトルから想起されるような原初の海、母なる海を思わせるゆるやかで予感に満ちた精緻な響きをオーケストラが作り出し、これに諏訪内晶子のソロが絡み合う。生命の息吹を連想させる確信のソロ。作曲者臨席。この曲、以前にも聴いたことがあると思ったが、N響のMusic Tomorrowだったかどうか。
●後半は奇をてらわないまっすぐなブルックナー。重厚さと抒情性のバランスがとれ、無理のない造形。第2楽章はシンバルで盛大なクライマックス。どこまでが指揮者の目指したものなのか、あるいは読響に刻まれたブルックナー演奏の伝統によるものなのかは判然としないわけだが、オーケストラは一丸となって集中度の高い演奏に。客席の反応は上々で、しっかりとした拍手が続いてフェデックのソロカーテンコールになった。
●曲が終わった後、拍手より先にブラボーの声が複数出た。曲はちゃんと終わっていたので、これをフライングとは言いづらいのだが、ほとんどの聴衆は余韻を味わおうと拍手を控えていたわけで、このあたりは価値観の違いか。なかなか難しい。いずれ、ブルックナーの演奏では能みたいに奏者が退場してから拍手をするという習慣が生まれるかもしれない。
三AI寄れば文殊の知恵

●AIはよくまちがえる。日々便利に使ってはいるが、「必ずどこかにまちがいが含まれている」という前提で接する必要がある。自信満々でデタラメを並べてくることもしょっちゅうなので、大事な事柄にかんしては「今教えてくれたことが本当にそうなのか、信頼できる資料を探してチェックしてほしい」とか、「今書いてくれたコードだけど、エラーが出ないか、また、予期せぬ副作用が出ないかもう一度チェックしてほしい」といったように再確認させるようにしている。あるいは、別のAIに同じ問いを投げて、回答を比較する手もある。そういうときは、ChatGPT(またはアントンR)、Gemini、Claudeの3種類を使っている。
●なぜ3種類使うかといえば、多数決をとれるから。2対1に答えが分かれることはよくある。それで思い出すのが「新世紀エヴァンゲリオン」のMAGIシステムだ。エヴァのシステムは三重化されており、意見が分かれたときは三者で多数決をとる、といった設定だったと思う。AIが実用化されて現実がアニメの世界に追いついた、というと大げさだが、おそらく多くの人がワタシと同じことをやって、同じことを感じているはず。
●このような3体による多数決システムには「エヴァンゲリオン」の前にも先例があって、それがフィリップ・K・ディックの短篇「マイノリティ・リポート」(旧題「少数報告」)。スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で「マイノリティ・リポート」として映画化された。物語に登場するのはAIではなく、プレコグ(と呼ばれる予知能力者)。この世界では犯罪を予知するためにプレコグの夢が活用されており、プレコグが見た未来が2対1に分かれた場合は多数決がとられて、少数報告(マイノリティ・レポート)が破棄される仕組みになっている。でも、実はそちらの少数報告が本質を突いていたというストーリー(参照:映画「マイノリティ・リポート」)。少数者が一歩先まで見抜いていることもあるわけで、あまり多数決に頼るのも考えものか。
「言語化するための小説思考」(小川哲)
●「言語化するための小説思考」(小川哲著/講談社)がおもしろかった。「ゲームの王国」「地図と拳」「君のクイズ」などの人気作で知られる直木賞作家の著者が、小説を書くときになにを考えているかを言語化した一冊。といっても、小説の書き方を指南するのではなく、もっと根源的な部分、小説とはどういうものなのか、文章をいかに書くかというところまで突きつめて考え、言葉にしている。
●どこも刺激的なのだが、たとえば第7章は「『伏線』は存在しない」と題される。よく小説に対して「伏線回収が鮮やか」みたいな評価があるけど、著者は「伏線」という言葉を激しく嫌う。一般論として、伏線とは「その後の展開を暗示する描写」「意外な展開に対する違和感を減らすための描写」と定義される。しかしこれが無意味なのは、小説の骨格そのものが「その後の展開を暗示する描写」と「意外な展開に対する違和感を減らすための描写」で成立しているからだと指摘する。まったくその通りだと思うじゃないすか。でも、本当にびっくりしたのはその先で、
僕は普段、プロットを作らずに小説を書いているのだが、プロットがないのに小説を書くことができるのは、「書いてしまった文章をいかにして伏線にするか」という倒錯した発想で物語を構築しているからにほかならない。
というくだり。そういえば、以前読んだ「君のクイズ」でも、書き出しの時点ではトリック(って言うのかな)が見つかっていなかったみたいな話を目にした記憶がある。
●それで思い出したけど、スティーヴン・キングが「ストーリーは由緒正しく、信頼に値する。プロットはいかがわしい」って書いていたっけ(→「書くことについて」スティーヴン・キング その2)。ストーリーは化石の発掘みたいに慎重に探し当てるものだけど、プロットは「優れた作家の最後の手段であり、凡庸な作家の最初のよりどころ」だって言うんすよね。おもしろくない? さらにキングは「なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。優れた小説はかならずストーリーに始まってテーマに終わる。テーマに始まってストーリーに行き着くことはまずない」って言ってるんだけど、これに近い内容のことが本書にも書かれていた。
●あと、金言だと思ったのは、以下の一文。小説だけでなく、あらゆる原稿に対して有益だと思う。
僕が生まれて初めて小説を書き上げたあと、最初にやった推敲は「自分のために存在している文章」をすべて削除することだった。
バッハ・コレギウム・ジャパン ベートーヴェンへの道 vol.1
●31日は鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンで「ベートーヴェンへの道 vol.1」。プログラムは前半がC.P.E.バッハのシンフォニア ト長調Wq.182-1、ベートーヴェンの交響曲第1番、後半がベートーヴェンの交響曲第2番。珍しく声楽なしのBCJ。コンサートマスターに寺神戸亮、第2ヴァイオリンのトップに白井圭、ホルンに福川伸陽、クラリネットにロレンツォ・コッポラ、ティンパニに菅原淳。名手たちがずらり。
●エマヌエル・バッハのシンフォニアは痛快。鈴木優人のチェンバロを中心に小編成のアンサンブルで小気味よく。ベートーヴェンの2曲の交響曲からは、作品本来が備える規格外のやんちゃぶりが伝わってくる。ピリオド楽器でベートーヴェンを聴く機会はなかなか貴重なのだが、やはり表現のコントラストの大きさを感じる。物理的なダイナミクスは小さいはずなのに、感覚的にはむしろ逆に感じるところがあるのが不思議。荒々しい部分としなやかな部分、透明感のある響きとざらりとした粗い質感の対照、さらにはテンポや音色など至るところで強烈なコントラストが仕掛けられていて、次から次へと大小さまざまなイベントが発生する。自分が当時の聴衆だったら、初めて聴いてこれを味わえたか、まったく自信がない。交響曲第1番の冒頭からして「途中から始まってる」感が半端ない。とくに美しいと思ったのは交響曲第2番の第2楽章。この楽章の目的地が定まらないまま漂泊するような雰囲気が好き。
●交響曲第2番の終楽章で熱いクライマックスを築いた後、カーテンコールがあり、アンコールで同楽章の後半をもう一度。こういった本来のアンコール、つまり本編の一部をもう一度演奏するのは楽しい。ぐっとはじけた自由な指揮ぶりはアンコールならでは。
●東京オペラシティが休館中のため会場がサントリーホールだったが、9月のシリーズvol.2はオペラシティに戻る。次は交響曲第3番「英雄」とケルビーニのレクイエム ハ短調。