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May 22, 2026

ジョン・アダムズ指揮東京都交響楽団の「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」「ハルモニウム」

ジョン・アダムズ 東京都交響楽団
●21日はサントリーホールでジョン・アダムズ指揮都響。ジョン・アダムズは2024年1月の都響定期で遅すぎた日本デビューを飾って「ハルモニーレーレ」他を指揮してくれたわけだが、今回、ようやく再共演が実現。79歳。あのジョン・アダムズも爺になる。でも、スリムで動きは軽やか、指揮棒の動きは明快。もっとも成功している現代の作曲家のひとり。未来から振り返ったとき、20世紀後半から21世紀初頭のオーケストラ音楽の代表的作曲家としてジョン・アダムズの名が刻まれるのだろうか。
●曲は前半にジョン・アダムズの「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」(1999/日本初演)、後半にアイヴズの「答えのない質問」、新国立劇場合唱団との共演でジョン・アダムズ「ハルモニウム」(1980)。「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」(日本語表記の揺れあり、「繊細で感傷的な音楽」等)は、曲名を見れば「ナイーヴ」で、しかも「センティメンタル」だというのだから、すごく「ベタな」音楽なのかと思うわけだが、作曲者自身の解説によれば、これは誤解を招くのを承知で使っている言葉なのだとか。本来はシラーの論考「素朴な詩と感傷的な詩について」における意味で使っているという。すなわち、「自分と周囲の環境とのあいだに、あるいは自分自身の内部に、いかなる亀裂も意識していない者」がナイーヴ、「意識している者」がセンティメンタル。このふたつの語を対立する概念として把握する発想がなかったけど、「それって、どっちを選んでも敗北なんじゃね?」って気はする。まあ、この分類でいえば、客席に詰めかけているたいていの人はセンティメンタルの側に立つ……のか?
●シラーとか、「ベートーヴェンかよっ!」って突っ込みたくなるところだけど、でも音楽は完全にジョン・アダムズそのもので、衒学的なところはなく、すこぶる明瞭で爽快。「急─緩─急」の3楽章構成で、中間楽章は瞑想的。第3楽章が壮麗で、前の2楽章に比べると、典型的なジョン・アダムズという意味で新鮮さよりも古典性を感じる。とても楽しい。短いパターンによるリズミカルな反復をもとにすると、いくらでも長大な曲ができてしまうので、ジョン・アダムズ流のポスト・ミニマルはシンフォニーにもオペラにも適しているとは思うんだけど、そのなかで新味となじみやすさのバランスをどうとるかは難しいところなんじゃないだろうか。自分の心のなかのどこかに「ハルモニーレーレ」の再生産を期待する気持ちがないとはいえない。
●「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」は45分の大作だけど、合唱入りの「ハルモニウム」は33分ほど。これも十分大作だけど、聴いてみると短く感じる。3つの部分からなり、それぞれテキストはジョン・ダンの「否定でしか表せない愛」(ネガティブ・ラブ)、エミリー・ディキンソンの「私が死のために立ち止まることができなかったから」、同「大荒れの夜」(荒れ狂う夜)。それぞれ英語圏ではとてもよく知られた詩なのだと思う。作曲者がテキストに求めたイメージは「さざ波のような音の波に乗って進む大勢の人間の声」。まさにその通りの音楽ではじまる。これもおおむね「急─緩─急」の構成。第3楽章はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」終楽章を思い出させる高揚感あふれる楽想で始まる。これはワイルド・ナイト、嵐の夜として歌われるのは狂おしい愛(字幕はなかったが、プログラムノートに対訳あり)。自分は後から知ったんだけど、この詩はエミリー・ディキンソンが彼女の義理の姉に対する情熱を表現したものという解釈が一般的なのだとか。マグマのようなエネルギーが噴出するが、最後は波が引いて、消え入るように終わる。「愛と死」というもっとも根源的なテーマを扱った全3楽章。
●間に演奏されたアイヴズの「答えのない質問」もたいへん見事な演奏。トランペットを2階席に配置、木管をP席に置いて立体的な音響。始まる前に指揮者の脇に椅子が置かれ、そこに客席に背を向けて合唱指揮の冨平恭平さんが座ったので「?」と思ったが、木管への副指揮だった。よく見たら、プログラムノートに副指揮としてもクレジットされてた。
●ジョン・アダムズのソロ・カーテンコールあり。

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