
●29日は東京オペラシティでチョン・ミョンフン指揮東京フィル。ビゼーのオペラ「カルメン」が演奏会形式で上演された(6年前にも同演目あり)。演奏会形式とはいえ可能な限り演技を入れる方式で、オペラシティの舞台の手前の空間(あまり広くはないわけだけど)を目一杯使う。ホセがカルメンを刺す場面はちゃんとカルメンが倒れるまで演じ切るスタイル。間奏曲では南風野香スペイン舞踊団によるフラメンコまで登場して、サービス満点。東京フィルのコンサートマスターは、新たに首席客演コンサートマスターを務める岡本誠司。これは強力。オーケストラは雄弁でダイナミック。起伏に富んだ表現で、「カルメン」としてはかなり重めのサウンド。冒頭の前奏曲から速めのテンポだったが、抒情的な部分はたっぷりと。第4幕冒頭の闘牛場の場面は快速テンポで畳みかけて鳥肌もの。
●歌手陣がとても豪華。カルメン役はステファニー・ドゥストラック。以前、新国立劇場のアレックス・オリエ演出の「カルメン」でも題名役を歌っていた。そのときは独自性の強い演出の印象が強かったけど、こんなに奔放に歌う人だったっけと軽く驚く。あれはもう5年前か。あくの強いカルメンらしいカルメン。ドン・ホセ役がマシュー・ポレンザーニ。うぉ、METライブビューイングでなんども見てるあの人の実物だ!と思ってしまった。さすがの歌唱で、のびやかな美声でありながらパワフル、余裕も感じさせる。ホセにしては成熟していて伍長というより将軍だし、ミカエラの許婚というよりはお父さんに見えてしまうが、圧倒的な声の魅力ですべてを超越する。演奏会形式の限られた条件でも、ホセの人間像をしっかり伝えるのは驚異的で、個人的にホセのハイライトというべき「ラッパが鳴ったから帰らなきゃいけないんですけど~」の場面の情けなさがたまらない。ああ、ホセ! わかるよ、ホセ!
●エスカミーリョ役のアンドリー・キマチは役柄にふさわしく堂々として、声も立派。ミカエラ役はスラーフカ・ザーメチニーコヴァー。清澄でひたむき。常々、オペラ界きっての邪悪な女はミカエラだと信じているのだが、その思いは変わらない。新国立劇場合唱団は歌に加えて、演技でも舞台を盛り上げる。事実上、演出があるわけだけど、ノリとしてはかなりストレートで、ど真ん中の「カルメン」。世田谷ジュニア合唱団はこの日のMVPかもしれない。泣けるほど尊い。
●今回の上演は19時開演ということもあってか、セリフ以外にも随所にカットがあって、第1幕のおしまいの場面をすっ飛ばして第2幕につなげるなど、いろんな工夫が凝らされていた。全般にテンポも速めに感じたけど、それでも終演は21時45分くらい。かなり遅い。ビゼーの音楽はすべて天才の手による貴重な宝物だけど、オペラにはシンフォニーと違ってプロダクションごとに事情に応じた上演形態を採用するフレキシビリティがあるはずなので、自分はさらにカットする方法はないものかとつい考えてしまった。21時半までに終われればオペラの可搬性が高まるのにな、と。あと、21時半を過ぎても舞台上に子供がいるのは、夏休み中とはいえ、気持ちが落ち着かない光景ではある。
●よく言われるように、メリメの原作にはミカエラという登場人物は存在しない。このキャラクターはオペラ化にあたっての偉大な発明だ。原作とオペラは別物でかまわないのだが、ドン・ホセがなぜ「ドン」かと言えば、本来は由緒正しいバスク人の下級貴族の家に生まれているのだが、暴力沙汰をきっかけに故郷を捨てることになった。オペラ内で危篤の母親が息子を許したいと言っているのはそういう背景を反映しているのだろう。都会に出てきたホセは原作中でこんなふうに身の上を語る。「そのころ私は若かったので、たえず故郷のことばかり思いつづけていたものでした。そして空色のスカートも、肩まで垂れるおさげ髪も持たない美しい娘なぞというものが、世の中にあろうとは思えなかったものでした」。カルメンみたいな女の存在は想定外だったわけだが、バスクでは当たり前の女性像、すなわち空色のスカートをはいて肩まで垂れるおさげ髪を持った美しい娘を、オペラのキャラクターとして実体化させたのがミカエラ。だから多くの演出ではミカエラは空色のスカートとおさげ髪の娘として描かれる。そこでだ(以上は長い前置きなのだが)、第1幕のミカエラの最初の出番、モラレスとの絡みをカットするというのはどうか。ここをカットしても話はつながるし、なによりいいのは、「実はミカエラはホセの空想上の存在である」という解釈が採用できる。原作上で想像上の存在だったキャラクターが、オペラ内でも想像上の存在だったとみなせれば、メタフィクション風味があっておもしろいのでは。が、そのためにはホセの不在の場面でミカエラが他者と会話するこのシーンは都合が悪いんだよなー、だからカットする。という考え方。ダメかな? あ、ダメ? やっぱりね……。
July 30, 2026