November 12, 2008

「ぼくは猟師になった」(千松信也著)

ぼくは猟師になった●圧巻。親が猟師とかそういう理由じゃなくて、純然たる興味と関心から猟師になったという京都の若者が書いた、「ぼくは猟師になった」(千松信也著/リトルモア)。京都みたいな都市圏で狩猟生活が成立するっていうのも驚きだ。
●著者は京大在学中から先輩猟師を通じて伝統のワナ猟を学び、現在は運送会社で働くかたわら、裏山で鹿やイノシシを狩猟している。「なんとなくずるい」からという理由で猟銃は使わない。猟期になると山にワナを仕掛けておいて、そこに捕まったイノシシなんかを仕留めるわけなんだけど、これがスゴいんだ。そもそも嗅覚の発達した野生動物たちは人間が仕掛けるワナになんか簡単にはかからない。鋼鉄のワイヤーでできたワナを、カシやクスノキとかいった匂いの強い樹皮といっしょに大鍋で10時間以上煮込んで匂いを消すとか、ワナを仕掛ける前に全身を良く洗うとか、いろんな工夫をして、それでもやっぱり感づかれたりする。そういった野生動物との駆け引きに勝利してようやく捕まえたとしても、その後、獲物にトドメをささなきゃいけない。この著者は基本的に「どつく」ことで仕留めるんだけど、相手がイノシシともなると危険も伴う。本書にはどのように猟師になったか、どうやって狩猟のために必要な知恵を学んだか、さらにはイノシシや鹿の解体・精肉法まで書かれている。
●そう、食べるのだ、もちろん! 著者にとって狩猟をするのは「自分で食べる肉は自分で調達する」という、生活の営みの一部なんである。ケダモノ好きなら(いやそうでなくても)、ワナにかかった鹿やイノシシを屠るというところに「かわいそうだな」という感情が自然とわきおこるだろう。でもワタシらが口にしている肉は、すべてがもともとは生きた動物のものである。スーパーの冷凍食品コーナーの餃子だろうが、コンビニのハムカツサンドだろうが、製品となる過程を遡れば、生の喜びや死への恐怖といった原初的な感情を有した一体一体の動物たちに確実にたどり着く。誰かがその動物たちを育て、屠っている。屠畜というプロセスが消費者には完全に見えないようになっているだけだ。
●しかし自ら獲物を解体し、精肉し、食するとどうなるか。著者は自分の獲物を無駄にしないために決して努力を惜しまない。獲物が死んで肉が腐敗しないように毎日ワナを見回る。食べられるところは全部食べる。食べられない消化器系の内臓などは土に埋めて、タヌキなど山に生きる他の動物たちに恵む。読んでいるだけでも、生物は他の生物によって生かされているのだという自然の摂理に対する畏敬の念がわいてくる。一人では食べきれない獲物を仲間たちと分かち合うのもすばらしい。食べ残した餃子やらハムカツサンドを各自めいめいがゴミ箱に捨て、これほど密集して住みながら食べ物をまるで隣人と分け合えないワタシらの都市生活はなんて脆弱なんだろう。
●イノシシ、鹿だけではない。狩猟仲間を手伝いカモやスズメも獲る。休猟期には山菜や野草を採り、渓流のアマゴやイワナを釣り、海へ行けばマテ貝を捕まえる。全部食べるためだ。ああ、ニンゲンだって動物なんだなあ。憧れ、感動する。ワタシ自身は彼のマネを1ミリたりとも実践できないことをよく知っているが、著者に対してほとんど崇拝に近い気持ちを抱いてしまうのを抑えられない。

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