May 18, 2011

METライブビューイング「カプリッチョ」

シュトラウス●昨晩はMETライブビューイング「カプリッチョ」へ。ウルトラ・ハイコンテクストな自己言及オペラ、メタオペラ。R・シュトラウスが1941年に作った最後のオペラは、あらゆる楽屋オチ的な笑いと洗練されすぎた老人の音楽に満ちあふれている。物語らしい物語はない(登場人物もそう言っているように)。伯爵夫人マドレーヌ(ルネ・フレミング)をめぐって、作曲家フラマンと詩人オリヴィエが恋のさやあてをするという構図に、舞台芸術における音楽と言葉のどちらが優位かという議論を重ね合わせる。グルックの話題が出るとオーケストラが「タウリスのイフィゲニア」を奏でるといったように引用満載、仕掛けが多すぎてどこまで受け止めることができているんだか。若い作曲家と詩人はそれぞれ伯爵夫人に愛を告白する。しかし伯爵夫人はどちらか一人に決められない、いったい音楽と言葉のどちらを選べばいいのか。恋と芸術論のバトルは、兄伯爵と劇場支配人ラ・ローシュを巻き込んで、新しい提案を生み出す。だったらキミたち、作曲家と詩人なんだから力を合わせてオペラを作ったらどうだろう、題材は……そう、今まさに起きている今日この日のことをオペラにしてみたまえ! つまり、客席のワタシたちはそうやって出来上がったオペラを鑑賞しているのだ。という意味でメタオペラ。
●そもそもオペラってどうよ。兄伯爵の問いかけはワタシたちが抱く疑問そのもの。「言葉なんていいよ、どうせ聞き取れないんだから」「レチタティーヴォってなにあれ、つまんないよね」。女優クレーロンはいう、「あたしは平気よ、死にながら歌ってても」。ハハハ……。そして、さあ目と耳を楽しませようと唐突にバレエとイタリア人歌手の余興がさしはさまれるというオペラのセルフ・パロディ。これが実に笑える。特にイタリア人歌手の男女が大見得を切りながらイタリア的歌唱をこれでもかと戯画的に繰り広げる場面は、ジョン・コックスのわかりやすい演出もあって抱腹絶倒。オペラの伝統へのパロディであると同時に、この唐突な娯楽的挿入はまさにシュトラウス本人が「ばらの騎士」で鮮やかな成功を収めている方法そのものなわけで、二重にパロディになっていてますますおかしい。
●劇場支配人ラ・ローシュの人物像、好きだなあ。オレの偉大な出し物を見ろといって繰り出すのは大時代的な古めかしい題材。やれやれ。若い作曲家と詩人は彼をとことんおちょくる、なんという化石的芸術観。しかしラ・ローシュは古風な人物なりの言い草で若者たちをたしなめる。おまえらまだ青二才、あそことここがまだまだなっておらん(若者はしゅんとする)、オレは偉大なる伝統を作ってきたのだ、時代を代表する作品を作ってみろ。でも、いざオペラを作るとなると、くどくどとわかりきった忠告を若者にしてしまう(年取るとみんなそうなる)。その忠告の一つに「オケを厚くしすぎると歌が聞こえなくなる」とかあるのがまたおかしい。それ自分で言うか、シュトラウス。で、ラ・ローシュは自分がオペラの登場人物になるとなったら、つまらない自尊心を抑え切れずに、「オレが舞台から去る場面は印象に残るカッコいいものにしろよ」的なことを言うんだが、そう言ってる矢先にジミ~に舞台から追い出されてしまうという趣向になってて、これも気が利いている(メトのお客さんも笑い声をあげた)。
●以前にもルネ・フレミングがこの役を歌った映像を見た記憶があるんだが、あれはどこの舞台だったっけな……。ルネ・フレミングでさえ少しずつ年をとるのだな。この日、主役は声のコンディションがよくなかった。中継だから編集もできない。でも客席からは大ブラボーだったが。指揮はアンドリュー・デイヴィス。いちばんおしまいのところ、お客さんの拍手がうっかりフライングで出てしまった。たまたまそうなったんだろうけど、それすら仕組まれたセルフ・パロディのように錯覚してしまう。シュトラウスは「私は自分自身より長生きした」って言ったんだっけ。オペラ追悼。一幕による美しすぎる弔い。

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