May 15, 2012

ラ・フォル・ジュルネ2012復習 公演編その2 スージー・テンプルトンの「ピーターと狼」

●LFJ2日目朝のプロコフィエフ「ピーター狼」。これがどうすばらしかったを、書き記しておかねば。「ピーター狼」はおもしろい物語だろうか? そうは思わないという人が多いのでは。たぶんそれは、語り手のオトナたちもよくわからないまま、あいまいに話を動物愛護に落とし込んでしまっていたからじゃないだろうか。結末も空漠としているし。
Peter and the Wolf●ホールAには左右のスクリーンに加えて舞台上にもさらに1枚スクリーンが設置され、スージー・テンプルトンの「ピーターと狼」が上映された。舞台上はリス指揮ウラル・フィル。しかし音楽はいきなりはじまらない。最初の一小節の前に長い映像によるプロローグがある(ちなみにこの映像は言葉なしで作られている。言語の壁はない)。人形アニメによる映像のクォリティの高さは一目瞭然。暗い目をしたピーター。暮らしに疲れた大人たち。そうだよなあ。ここは危険な狼がその辺をうろついているような寒村なのだ、ピーターが元気いっぱいの朗らかな少年であるほうがおかしい。
●ピーターが町を歩いていると、ばったり狼に出会って慄く。だがこれはショーウィンドウに飾られた剥製にすぎなかった。驚いたピーターは鉄砲を持った猟師にぶつかる(猟師というかミリタリーマニアにすぎないようだが)。猟師はピーターをにらみつけ、胸倉をつかんで締め上げる。そのまま狭い路地に連れ込み、ゴミ箱にピーターを突き落とし、銃口を向ける。恐怖するピーターをせせら笑って猟師は去る。ああ、田舎町、DQNの王国。
●おじいさんは厳重にいくつもの南京錠をかけて家の戸締りをする。ピーターが外に出ないように。もちろん、狼に襲われないためにそうするのだが、ピーター少年はなんと外界から隔絶した狭い世界に生きているのだろう。ピーターはしかし少年であるから、鍵をこじ開けて外界へと出る。つまり、これはこの世でもっとも普遍的な物語、少年が外に出て大人になるという話なのだ(子供のための音楽物語でそれ以外のテーマがあるだろうか?)。ピーターはおじいさんの目を盗んで外に出て、狼と対決する。
●ピーターは自らの力で狼を生け捕りにする。おじいさんとピーターは生け捕った狼を町に運び、どこに売ろうかと思案する。猟師は身動きのできない狼に銃口を向ける。この男は子供とか生け捕りになった狼とか、自分より弱い相手に向かって虚勢を張るだけの人間なのだ。原作ではここでピーターは狼を動物園に連れて行こうと提案するが、そんなちぐはぐな話で終わっていいはずがない。スージー・テンプルトンのピーターは(おそらく猟師への怒りをこめながら)毅然として、ここで狼を解放して、正面から狼と向き合う。ピーターと狼がともに並んで歩く姿は、動物愛護的結末とはぜんぜんちがう。ピーターは敵を助けたんである。人間社会では敵対する存在や考えの異なる者に対しても救いの手を差し伸べる者が敬意を払われリーダーと見なされるというルールを、ピーターは察知し、実践してみせた。自由を得た狼はピーターも猟師も襲うことなく、月夜の中を去る。狼には狼の尊厳がある。スージー・テンプルトンは子供向けの物語を通して、これを見る大人たちに問うている。そこにいるのはピーターなのか、それとも猟師なのか。
●目の前で映像と生のオーケストラがシンクロしているというのは、単に映画を見るのとはまるで違う。作りこまれた映像を「ライブ」として体験できるとは、なんというぜいたくなのだろう。

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