May 17, 2012

オペラドキュメンタリー「プッチーニに挑む」

オペラドキュメンタリー「プッチーニに挑む」●この週末、5月19日(土)からオペラドキュメンタリー「プッチーニに挑む」が東劇で公開される。主役は岡村喬生(もう80歳!)。ドキュメンタリーの基本的な筋はこうだ。プッチーニの「蝶々夫人」で描かれている日本はしばしば珍妙なものであり、本当の日本に対する無理解であふれている。かねてよりこれを問題視してきた岡村喬生が、実際の日本に即した「蝶々夫人」をイタリアで上演しようと、「蝶々夫人」台本改訂シンポジウムを開いたり、資金を集めたり、キャストをオーディションで選んだりと東奔西走して、ついにプッチーニの故地トッレ・デル・ラーゴの野外劇場で岡村版「蝶々夫人」上演にこぎつける。ところがそこでプッチーニの孫から台本に手を入れることを拒否されたり、契約等運営面の段取りに不備があり日本から連れてきた歌手が歌えなくなったりと、さまざまな障害にぶつかる。しかし岡村喬生は決して諦めない……。
●このあらすじを読んで「そうだ!『蝶々夫人』に出てくる日本はおかしい!どうにかしなければ」と共感した方は、この映画を見るが吉。ぜひ。
●オペラの観方というのは本当に様々なものなんすね。ワタシはプッチーニが描いた「蝶々夫人」に出てくる「日本」が、おかしいとはまったく思わないし、本当に日本らしい正しい演出が必要だとも感じない。むしろ正反対で、あれは架空の国「日本」であることが作品の不滅の価値を担保しているのだと思っている。「トゥーランドット」の「中国」は本当の中国からかけ離れていていいし、「西部の娘」のアメリカがどれだけ当時の正しいアメリカを描いているかなど気にならない。舞台設定が日本であれ中国であれアメリカであれ、ある時代のどこかの場所だから成立するのではなく、いつの時代でもないしどこの国でもないところであっても伝わる作品だけが古典として普遍性を獲得するはず。そもそも現実の19世紀末の長崎なんて、私たちが時代劇などで知る姿とは相当かけ離れていそうなもので、本当にオーセンティックに描いたら現代の日本人からはずいぶん奇妙に見えるものになるんじゃないだろうか。そして正しくムーア人な「オテロ」、正しく16世紀ドイツな「マイスタージンガー」、正しく18世紀ウィーンな「ばらの騎士」だって、正しく19世紀末長崎な「蝶々夫人」と同じくらい存在しないものであって、「蝶々夫人」の立ち位置というのは他の名作オペラと比べて特に例外的ではないんじゃないか……。
●そういえばチャン・イーモウ演出で本物の紫禁城を舞台にした「トゥーランドット」があったっけ。あれはどこか色物っぽく感じた。そしてゼッフィレッリのニセモノの中国は、本物の「トゥーランドット」っぽい。

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