October 9, 2012

ブリテン「ピーター・グライムズ」@新国立劇場

●今季の新国立劇場はブリテン「ピーター・グライムズ」で開幕。これを観にいかなかったらなにを観るの?」というくらいの演目。初日から評判は上々で、期待通りのすばらしさだった。打ちのめされるオペラ、ナンバーワンかも。台本と音楽の両方で圧倒される。
ブリテン●「ピーター・グライムズ」は「ヴォツェック」などと同じく、社会から疎外され、不寛容に押しつぶされる男の物語だ。だから、まず条件反射的に自分をピーター・グライムズの場所に置いて聴こうとする。が、幕が開けてしばらくすると、そんな抑圧された人物を都合よく気取ったような視点では見ていられなくなる。ピーター・グライムズはなぜ村人に疎外されているのか。少年に対して乱暴にふるまうから? 家ともいえない掘っ立て小屋みたいなところに住んでいる貧しい男だから? いや、一昔前の寒村における徒弟の扱いはピーターに限らず酷いものだっただろう。子供なんてぶたれて当たり前だったにちがいない。貧しい者だっていくらでもいただろう。
●で、やはりセクシャリティの問題に思いを巡らせないわけにはいかない。アレックス・ロスが「20世紀を語る音楽」のなかでブリテンと「ピーター・グライムズ」当初脚本におけるホモセクシャリティや少年愛の問題について論じていたと思うが、今回のウィリー・デッカー演出ではこれらの要素は触れられていない。それで問題なく作品は成立するんだけど、ワタシはやはりピーター・グライムズはセクシャリティゆえに疎外されているという設定でしか観ることしかできなかった。ピーターがエレンに抱く夢は、常に自分が社会の構成員として一人前に認められるための方策としてしか語られることがない。彼はエレンという個人に微塵の興味も抱いていないのだ。一方、村人たちはどうか。たとえば「人はみな自分らしく生きる権利があると思うんだ。僕は他人が僕と違う生き方を選んできたとしても、決して差別しないし、彼のことを尊重するよ」なんてことを涼しい顔で言う人がいたら、そんな人間の言うことを1ミリでも信用できるだろうか。だれだって言うだけならそう言える。この村人たちですら胸を張ってそう言うだろう。しかし「ピーターのこと、差別なんかしないよ」って言っていても、ピーターが少年と関係を持てば途端に平気な顔をしてはいられなくなる。「自分で判断のできない少年が相手なのだから罪だ。これは決して差別ではない」と主張するかもしれない。しかしピーターにはピーターの倫理があってはいけないのか? 彼の倫理ではごく当然の愛情表現だったかもしれない。絶望的な軋轢と相克を前にしてもなお「僕はあなたのことを尊重する」と言えないものが村人になる。つまり、自分も村人になる。セクシャリティではなく、ナショナリティやエスニシティの話だったとしても同じことはいくらでもあるわけで、その度にお前はいちいち村人の側に付こうとするのだと客席に向かって冷然と宣言するのが、この「ピーター・グライムズ」という作品。このオペラは観客に「心地よい除け者の孤独」という安楽な仮想ポジションを決して与えてくれない。
●あのブリテンの海の音楽。風が凪ぎ波が陽光にきらめく穏やかな海に救いのない悲劇を託する。突き刺すような告発の合唱。憎悪の増幅装置となって襲いかかる痛烈な管弦楽。これを31歳で書いただなんて。
●スチュアート・スケルトン(ピーター・グライムズ)、スーザン・グリットン(エレン)、リチャード・アームストロング指揮東フィル、新国立劇場合唱団。合唱は驚異的な完成度。

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