ドミノ・ピザ
January 5, 2017

ゾンビとわたし その33:「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)

●新年早々に終末感の漂う話題で恐縮であるが、久々に不定期連載「ゾンビと私」として、「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」(羽田圭介著/講談社)を下腿三頭筋にググッと力を込めつつご紹介したい。この数年、あたかもブームのようにゾンビあるいはそれに類する生命体(いや非生命体)を題材としたフィクションが次々と発表され、とてもそれらを十分に追いかけることはできていないのだが、多くの物語はこの災厄を軽々しく扱いすぎているという印象を持っていた。はやり物に乗ってみただけで、切実さが微塵も感じられないというか。その点、この一冊は違う。正しく現実の問題としてゾンビ禍をとらえている。迫りつつあるゾンビ禍に立ち向かうために必読の小説といってもいいのではないだろうか。
●主要な登場人物は大手出版社の編集者、純文学の極貧作家、女性誌などでも人気の美人作家、小説家志望の若者、福祉事務所で働くケースワーカー等々。舞台の中心となるのは文壇である。危機はひとまず古典的な枠組みにのっとって始まる。基本ルールはしっかり踏襲される。ヤツらは人を噛んだり、喰らったりする。噛まれると感染する。感染するとヤツらに変質する。ヤツらは頭を破壊されないと活動停止しない。ヤツらはゆっくりと歩く。が、2017年の現代にあって、そんな古典様式だけでゾンビを描けるはずがない。やがて走るゾンビがあらわれる。どうやら同じゾンビ化するにも、古いゾンビ観で育った年配者は歩くゾンビになるが、近年のゾンビ観になじんでいる若者たちは走るゾンビになりやすい……といったように、「ゾンビのなんたるかを(よく)知っている現代のわたしたち」が前提となっているところが秀逸。
●で、書名にあるようにこれはコンテクスト・オブ・ザ・デッド。つまり、なにが人をゾンビにしているかというと、コンテクスト依存なんである。なにを言うにもするにも、狭い集団内で共有されているコンテクストにほとんど無自覚で乗っかることでしかできない人々が、次々とゾンビになる。このテーマ設定が新しく、そして共感できる。なぜなら現実そのものだから。つまり、この本は二重の意味で現実的なんだと思う。ひとつは現代日本におけるゾンビ禍の描写として。もうひとつはゾンビ禍が暗喩するわたしたちのあり方について。このテーマは実のところワタシたちにとって取り扱い注意物件でもあって、コンテクスト依存を嘲笑うことは一見容易だが、たとえば音楽作品やそのコンサートなど、やたらとハイコンテクストなカルチャーを無条件に許容している自分たちをどう規定すべきなのかという問題をはらんでいる。グサッ。ガブッ。
●お気に入りは、出版社のパーティに作家や編集者たちが集まっているところに、ゾンビ作家たちが乱入してくる場面。そこに居合い切りの達人として知られる有名書評家がやってきて、バッサリとゾンビを斬り捨てる。次々とゾンビを斬るが、「面識もっちゃった相手に対しては、メッタ斬りもしづらいんだよね。さっき挨拶しちゃったから」とか言って、斬りかけたゾンビ作家に構えを解いて会釈して、そそくさと別のゾンビを斬ったりする。大笑い。
●著者は又吉直樹と同時に芥川賞を受賞しているが、それよりもっと以前、高校在学中に「黒冷水」で文藝賞を受賞して話題になった。これは自分も読んだ記憶あり。それから十数年が経って、こんなに秀逸なゾンビ小説が書かれることになるとは!

>> 不定期終末連載「ゾンビと私

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