Books: 2009年3月アーカイブ

March 24, 2009

「会社人生で必要な知恵はすべてマグロ船で学んだ」「働くということ」

「会社人生で必要な知恵はすべてマグロ船で学んだ」●書名のインパクトだけでグワシッとハートを鷲づかみされて衝動買いしてしまった、「会社人生で必要な知恵はすべてマグロ船で学んだ」(齊藤正明著/マイコミ新書)。いまどき、マグロ船っすよ……いやいや、違う、誰かがマグロ船に乗って漁をするからマグロを食することができるんだった。
●著者は会社の業務の一環として、マグロ船に乗ることを命じられる。一度港を出たら、何十日も陸にはもどれない。海にはコンビニもないし、病院もない、ケータイもつながらない。漁師ばかりの閉ざされたマッチョ空間で、船酔いに苦しみながらも著者は漁師たちから多くを学ぶ。
●が、これは微妙にワタシの期待したものとは違っていたかもしれん。著者はマグロ漁船の漁師の知恵から学んだ、「いかに会社でふるまうべきか」等々の処世訓的なものを読者に披露してくれるのだが、どうしても「会社」よりも「マグロ船体験」の強烈さのほうにワタシは惹かれてしまう。赤道直下の洋上の日々、なにを目にし、なにに畏れ、なにに笑い、なにに怒ったのか、そういう一人称視点のマグロ船体験をもっとガッツリ読みたかった、と。でもこれはワタシがちゃんと書名を真に受けてなかったのが悪いんであって、書名に偽りはない。特に社会に出てから数年の若者であれば(当面)必要な知恵を得られると思う。
「働くということ」●で、なんとなくバランスを取るためにもう一冊、古いけれどもぜんぜん古びてない労働本を続けて読む、「働くということ 実社会との出会い」(黒井千次著/講談社現代新書)。1982年に一刷で、2009年に39刷(!)。良書。これは本来、学生生活を終えて社会に出ようとする若者たちに向けて書かれている。労働とはなにか、人はなぜ働くのかという根源的な問いかけが延々と続く。著者は作家になる前に会社員生活を15年間送っているのだが、1970年に退社しているというからその体験は今から見ればかなり古い話だ。ところが、その内容は現代の視点から見ても驚くほど古びていない。働くことの本質は数十年くらいじゃ変わらないんだろう。もちろん「なぜ働くのか」ってのは生計のためとかいう次元の話ではない。たとえば、すごく仕事嫌いで怠惰な人間でも、報酬とは無関係にとことん働きすぎてしまうことってしばしばあるじゃないっすか。
●労働とはなにか、人はなぜ働くのか。この問いは社会に入って何年経っても立ち上ってくるものだし、一度は体にすんなり入ってなじんでしまったとしても、なにかのきっかけで繰り返し再浮上して前景化したりする。新社会人だけじゃなく、まだ社会人数年目で「ケッ、会社なんてくだらん。オレってなんのために働いてるんだろう」って思ってる方であっても、あるいはどっぷり実社会に浸りきっているけど「なんのために働いているんだろう」的な疑問から逃れない方でも、さらには「これから会社辞めようかな~」とか迷ってる方でさえ、十分な手ごたえを感じながら読めると思う。仮に社会的成熟度の高い方にとって、ここに書いてあることの多くはわかりきったことであるとしても。

March 13, 2009

「ヤバい社会学」(スディール・ヴェンカテッシュ著)

「ヤバい社会学」●たしかにこれはヤバい→「ヤバい社会学」(スディール・ヴェンカテッシュ著/東洋経済新報社)。早く寝なきゃいけないのに寝床で読み出すと止まらない。郊外の中流家庭に生まれシカゴで社会学を学ぶ当時大学院生の著者が、研究のために大学のすぐそばにある貧困地区に足を向ける。そこは学生が「あのあたりには決して立ち入らないように」と注意されるような「アメリカ最悪のゲットー」。ギャングと自治会がコミュニティを取り仕切っていて、中で何かが起きても警察も救急車もやってこない。というか警察が来るときはギャングよりも怖いことになるという無法地帯。が、本当は無法地帯じゃなくて、ギャングの世界にはその世界なりの法や秩序があって、社会は成り立っている。それを著者は自らギャングのリーダーと「つるんで」明らかにしてゆく。原題は「一日だけのギャング・リーダー」。
●出てくる若い男はみなギャング、若い女はみなシングルマザーの売春婦。そんな印象を受けるほど想像を絶した社会なんだけど、ここで著者は自分の立ち位置を見つけて定着してしまうところがスゴい。地下経済ノンフィクションでもあり、インテリとギャングの妙に落ち着かない友情物語?にもなっている。著者がインド系ベジタリアンというのも、なんだか不思議な対照を成していて吉。

March 3, 2009

「充たされざる者」(カズオ・イシグロ)

「充たされざる者」●昨日が執事小説に続いて今日は同じくカズオ・イシグロのピアニスト小説を。「充たされざる者」(ハヤカワepi文庫)。現代三大ピアニスト小説のひとつには確実で入るであろう問題作。何が問題かといえば、この文庫、分厚すぎる……ってのはウソ、いや中身はよっぽど問題作だ。
●主人公は世界的な名声を獲得したピアニスト、ライダー。この人、誰からも「ライダー様」と呼ばれるばかりで、ファーストネームがない。「日の名残り」や「わたしを離さないで」と同じく、主人公の一人称視点で物語は始まり、いわゆる「信頼できない語り手」の形をとる。ライダーはどこかヨーロッパの片田舎に招かれて、これからピアノを弾かなければならないらしい、しかもそれは単なるリサイタルではなく、住人にとっては町の命運がかかった重大イベントのようだ。町のあらゆる名士たちが「ライダー様」を待ち構えており、歓迎行事をはじめこれから凄まじくタイトなスケジュールをこなさなければならない、しかしマネージャーはどこだ、ライダーはスケジュールがまったく見えないまま、町の人々の丁重すぎる歓待を受ける……。
●で、読み始めてすぐに気づくのだが、主人公の一人称視点で書かれているはずなのに、あっさりと三人称視点でなければ見えないはずの情景が描写されて混乱させられる。なんと、これは前衛的なスタイルで書かれた小説なのだ。次から次へと町の人々があらわれ、「ライダー様」をあちこちに連れまわすのだが、その間に小説中の設定が変化していたり、町の中の地理関係が無茶苦茶になっていたりする。
●あれれ、この町はライダーが始めて来た町のはずだが、いつの間にか生まれ故郷のようになっていて、同窓生とばったり出会ったりするじゃないか。この女性と子供、他人のはずなのに、なんだかライダーの妻と子という設定にすり替わっているぞ。町の中をクルマで移動しているはずなのに、建物の中の扉を開けたら最初の出発点につながっているとか、なんだこれは。そうだ、これは夢ではないか。まるで夢の中のように、ここの「現実」は不安定で脆い。
●何百ページも悪夢世界を漂流させられながら徐々に見えてくるのだが、どうやらこの世界の登場人物たちには、「ライダー様」自身の若き日の分身や老年期の分身などがいるらしい。あるいは分身ではなくともある程度は「ライダー様」の一部を体現したような存在のようだ。そして、誰も彼もが世界的名ピアニストである「ライダー様」に対してへりくだった態度をとっているのだが、むしろ慇懃無礼というべきか、町の文化的芸術的成功のための催しがどうのこうのと立派な題目を並べてはいるが、一皮向けば失礼千万な連中ばかり。みなウジウジと自分の過去の失敗を悔やんでいるくせに妙に自己肯定的で、次から次へと「ライダー様」に厚かましい頼みごとばかりしてくる。ライダーは大人物らしく皆の要望に応えようとするが、そのうちどんどん手が回らなくなって破綻をきたす。つまりみんなヤなヤツ。町のみんながどれくらいヤなヤツかといえば、すなわち自分自身「ライダー様」と同じくらいヤなヤツだったという、これまたイジワル小説なのだった。やれやれ。猛烈に可笑しいぞ!
●読み始めて実験的な手法で書かれていると気づいたときには、正直裏切られた気分だったが、耐えて読み進めるとすばらしく傑作であったと気づく。この小説世界には一流のピアニストがレパートリーにすべき現代の作曲家として、マレリー、ヤマナカ、カザンといった人がいるようだ。ヤマナカはタケミツだろうか、マレリーはなんとなくブーレーズに置き換えて読んだが……、いやいや、そういう読み方はなんか違うな。
●文庫で全948ページという分厚さ。フツーなら二分冊にするだろうがなぜ? 上下巻だとみんな上巻で投げ出しちゃうから? この厚さに匹敵する文庫は島田荘司の「アトポス」以来。

March 2, 2009

執事小説

●少し前に、フジテレビのドラマ「メイちゃんの執事」(見てません)のおかげで、執事カフェの人気が再燃中みたいなニュースを目にしたんだけど、ここでいう執事ってイケメン必須なのはともかくとして、基本若者なんすよね、おそらく。なんか執事カフェの給仕っていうと、どっちかって言うとホストみたいな人がやってて、藤村俊二みたいな人は見当たらない気がする。
「日の名残り」●執事といえば、執事小説の傑作として忘れられないのがカズオ・イシグロの「日の名残り」。第二次世界大戦直後のイギリスを舞台に、名家の執事スティーブンスが古きよき時代を回想しながら、独白を綴る。仕えるべき屋敷の主人が英国貴族からアメリカ人富豪に変わったように、時代は大きな変わり目を迎えている。執事スティーブンスは主人から与えられた休暇に、美しいイギリスの田園地帯を旅しながら、かつての栄光の日々や来るべき時代に思いを馳せ、執事の品格とは何か、あるべき理想の執事の姿とはどのようなものかと静かに思索する。
●で、もう古典に近い名作だからスジを少し割るけど、これほどイジワルな小説もないんである。というのも、さんざん読者に名家の執事ライフに共感させておいて(でもときどき「あれ?」と思わせながら)、終盤、主人公がある懐かしい人に再会することをきっかけとして、世界ががらりと変わって見える。そこで描かれるのは、人というものがいかに自己肯定的で独善的なものか、ということ。偉そうに立派に執事の職務を遂行して人生を振り返っているかと思えば、裏を返すと、人情の機微ひとつもわからないで人生を棒に振った愚か者でもあり、しかもその仕事の本質も到底世のためになったとはいいがたいものだという醜く残酷な現実が見えてくる。
●しかし人は自分が送ってきた人生を否定などできないものだ。うすうす何かに感づいていても、リタイアする年齢になれば「オレはこんなふうによくやってきたのだ」と考えることしかできないのがフツー。ある一瞬にその強固な自己肯定の鎧が破れ、執事スティーブンスの中から人間スティーブンスが見えるのだが、最後にはまたその鎧に帰ってゆく。その皮肉な寂しさといったらない。でもこれが世の真実。
●人によっては前半の美しい世界に魅了され、肝心の終盤の出来事が「ピンと来ない」かもしれない。身の回りのあの人もこの人もスティーブンスだし、未来の自分も確実にスティーブンスと同じ罠に落ちるだろうというところに共感できるかどうか。タイトルなった「日の名残り」という言葉が使われる場面の底意地の悪さと来たら、もう全身掻き毟りたくなるほど見事。主人公をこんな目に遭わせておいて、「日の名残り」が、つまりこれからの人生がいちばんすばらしいだとぉ? どの口が言うかっ!

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