May 08, 2008

祭の後。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009は「バッハとヨーロッパ」

東京国際フォーラム。一日歩き回ると2万歩くらい。●ついにラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2008、終了。まず来年のテーマについて。記者発表直後の公式レポートにあるように、次回のテーマは「バッハとヨーロッパ」。すでに2月のナントでは来年のテーマがオフィシャルに発表されていたので、東京もバッハ絡みになるということは予測されていたわけだけど、どれくらいバッハの前後左右に広がるのか(時間的空間的に)ってのがこれである程度イメージできるかと。マタイやヨハネみたいな長い曲をどうするのかとか、5000人のホールでできる演目に何があるのかとか、あれこれ思うわけだが、大変楽しみなテーマである。テレマンやラモーらのバロック音楽、ストコフスキによるトランスクリプション、バッハの息子たちあたりに期待大。
●で、今年の「ラ・フォル・ジュルネ」を振り返ってみると、シューベルトでホントによかったなと改めて思う。シューベルトって孤独で暗い音楽だし、たくさん聴くと心が病んできそうな気がしてて、去年までは数少ない敬遠する大作曲家の一人だった。でももう大丈夫、というか健やかに病む術を見つけたというか。2月のナント以来、CDも含めて大量摂取して、抗体ができた。おかげで好きな作曲家の仲間入り。ピアノ・ソナタあたりはまだまだ聴き足りないくらい。
●5月1日にプレナイト、2~3日は東京国際フォーラムに詰め、4~5日はラ・フォル・ジュルネ金沢、再び6日に東京国際フォーラム。公式レポートと並行して、この間ほぼ毎日OTTAVAの出演があり、金沢では地元局MROのラジオにもおじゃまして、やたらしゃべっていた気がする。石川県立音楽堂の前でケータイで現地レポートをOTTAVAのスタジオに届ける回がいちばんヘンだった。一人だけで立ってて、マイクもイヤフォンもない状態でただケータイに向かって「はーい、こちらは金沢駅すぐそばの石川県立音楽堂の……」とかしゃべってるんだから、怪しさ全開。
●肉体的疲労度もピークに達して、もうぐったり。でも楽しかった。期間中、ご挨拶いただいたみなさま、お仕事でお世話になったみなさま、ありがとうございました。
●目先の仕事を片付けたら、一日横になってぐうたら読書でもしたい。

May 02, 2008

今日から「ラ・フォル・ジュルネ」

ラ・フォル・ジュルネ金沢、熱すぎ

東京のネオ屋台村ラブ
●いよいよ「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」がスタート、昨夜レセプションに出て、プレナイトのレネゲイズ・スティール・バンド・オーケストラを聴く。ナントではシューベルトしかやってくれなかったんだけど、東京では彼ら本来の音楽(なんて呼べばいいのかわからない)もやってくれて驚く。本来こういう団体だったのか。衣装もカラフルなTシャツで蝶ネクタイのナント仕様とはぜんぜん雰囲気が違う。OTTAVAにも顔を出す。いや、声か。今日は初日じゃなくてまだ0日目。なのに、なんだかもう初日を終えたような気がする。謎。
●で、この連休中は「ラ・フォル・ジュルネ」公式レポート等々あり、ゴールデンウィークでもあるので、当欄も不定期更新に。これから数日は以下に出没。

「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」公式レポート
OTTAVA(インターネットラジオ)
ラ・フォル・ジュルネ金沢

April 28, 2008

「ラ・フォル・ジュルネ」週間、はじまる

●いよいよ「ラ・フォル・ジュルネ」ウィーク。事前にチケット予約してスケジュールをきっちり決めて行くというのが性に合わないような「当日ぶらり参加」派の方も、無料コンサートや関連イベントも含めてきっと楽しめるはず。ただし、1枚だけでもなにか有料公演のチケットを持っていないと、入場できるエリアが限られてしまって何かと不自由。これからの方は、まだ残券が十分あるホールAやホールCで、シューベルトのミサ曲なり交響曲なりをゲットするのが吉かと。
●今年は並行して「ラ・フォル・ジュルネ金沢」もある。金沢のほうは東京の第一回がそうであったように、テーマはベートーヴェン。有料公演は5月3日~5日まで。ホールも3つしかないので、有楽町の巨大な規模に比べれば小ぢんまりしている。でも環境的には東京にはないぜいたくさもあって、メインの会場となる石川県立音楽堂は1500席ほどのシューボックス型音楽専用ホール。オーケストラ・アンサンブル金沢の本拠地だからこのサイズなんだけど、この小ささがずごくぜいたく。もう一つ、同じ音楽堂にあるのがなんと邦楽ホール。普段、邦楽専用ホールとして使われている場所を、室内楽やピアノ独奏に使うという。あともう一ヶ所は金沢市アートホールという場所で、こちらはよく知らず。東京ともナントとも全然違う「ラ・フォル・ジュルネ」になるんじゃないかと期待している。
●あ、ヨソから「ラ・フォル・ジュルネ金沢」に行く方は、観光ついでに金沢21世紀美術館もマストかと。
●ワタシは東京も金沢も行く。今年も東京の「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」公式レポートを山尾氏らと更新しつつも、4日と5日は金沢へ。今のところ、公式レポート以外では、2日夕方に東京でクラシック・ソムリエ・ボックスに入り、3日にデジタルラジオOTTAVAに出演、4日の朝に飛行機に乗って午後イチで金沢の地元局MROラジオLFJ特番に出演、5日に金沢からOTTAVAに電話出演、夜に帰京して、6日はまた東京に復帰という予定あり。終わった後もあれこれ続くから、とにかく体調を崩さないように気をつけねば。

April 22, 2008

「魔弾の射手」

新国立劇場●18日、新国立劇場でウェーバーの「魔弾の射手」を観てきた。ダン・エッティンガー指揮東フィル、マティアス・フォン・シュテークマン演出。序曲の前にセリフだけで一芝居あり。隠者のところにアガーテ(エディット・ハッラー)が食糧を運んであげて会話するんすよ。で、「なんか不吉だから」とかなんとか言って、隠者がアガーテに白いバラを与える。なるほどー。これで3幕の運命の射撃シーンにきちんと伏線が張られてわかりやすい。序曲の前ならダラダラする心配もないので、とても良かったのではないかと。以降、演出はト書きに忠実なタイプ。安心できる一方、狼谷のシーンとか学芸会っぽくなるワナもあって微妙。悪魔ザミエルの衣装にはのけぞった。たとえるなら、現代の仮面ライダーキバに初代ライダーのショッカー戦闘員が出てくるくらいのインパクト(←なにそれ)。
●「魔弾の射手」って、終幕が長々と説教くさくてダレるというか、セリフ配分の手際がイマイチみたいな印象があって、音楽のすばらしさに比べると劇としてはどうかなと思わなくもないけど、テーマは文句なしに共感できるいい話だと思う。主人公の若い猟師マックスは、森林保護官の娘アガーテと結婚したい。でも、そのためには射撃の腕試しに合格しなきゃならない。人生を賭けた「絶対に外せない的がある」状態で力を問われる。
●でもそれって根本的におかしいわけっすよ。無謬性を最優先で求める社会で生き残れる人間は、何もしない人間だけであって(誰もがミスをする。何かをやればやるほどミスは増える。ミスしないのは何もしない人間だけ)、そんな社会からはいずれ果敢さや活力は失われるに決まっている。射撃のスランプに悩んだマックスは、悪魔と取引をして百発百中の魔弾を手に入れる。マックスの弱さを非難できる人間はいない。人は過ちを犯す、だが悪魔の弾なら百発百中だ……。
●ところが実は悪魔だってミスをする。予定では7発の弾丸の内、最後の1発はアガーテの命を奪うはずだった。だが、その一発は隠者の花冠の持つ聖性ゆえか、アガーテを逸れて己の走狗たるカスパールに当たってしまう。
●最後に隠者が登場して領主を諭す。このような無謬性を礎とした社会制度は止めよ、と。となれば、猟師マックスの過ちに対しても寛容な裁きが下されるのは当然だ。百発百中を求めるな。完全無欠な者などいない。あなたも私も誰もがミスをする。だから、このオペラを見終わって、「肝心のところでホルンが外した」とか言ってる人には、ぜんぜん物語のテーマが伝わっていない。

April 13, 2008

レッツゴー!クラヲくん まとめエントリー

●「おかか1968」さんのところに「レッツゴー!クラヲくん」まとめエントリーができていた。これ見ていちばんウケるのはワタシ自身だろうな。ありがたいことである。

「おかか1968」ダイアリー: クラヲくんまとめ


April 11, 2008

オネーギンとレンスキー

●13日から始まる「東京のオペラの森」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」のゲネプロを見てきた。小澤征爾指揮、ファルク・リヒター演出、ウィーン国立歌劇場との共同制作。本公演前なので中身には触れないけど、先鋭すぎる演出ではなく、歌手陣もそろっていて楽しめるのでは。レンスキー役のマリウス・ブレンチウはなかなかの美声。
●関連記事。東京のオペラの森:制作は今年限り(毎日新聞)。
●チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」は、登場するそれぞれの人物像が魅力的で、普遍性のあるテーマを何重にも盛り込んでいるのがいい。オネーギンとタチヤーナ、オネーギンとレンスキー、レンスキーとオリガ、タチヤーナとグレーミン公爵、どういう組み合わせをとっても、それぞれに興味深い関係性があって、オペラの脚本では珍しいくらいよくできている(プロットはアンバランスで特異だけど)。
●たとえば、男性だったらオネーギンとレンスキーのどちらに共感するか。遊び人オネーギンか詩人レンスキーか。放浪者オネーギンか土地の者レンスキーか。モテ男オネーギンか非モテ系レンスキーか。前者は自尊心を失って破滅し、後者は自尊心が強すぎて破滅する。二人の決闘の場面はやはり見ごたえがある。「なんで、そんな決闘する必要なんかあるのさー」ってのがワタシらには不条理であるにしても。
●3幕で、オネーギンが旅をして帰ってきて、見違えるように美しく成熟した女性になったタチヤーナと再会するところで歌うじゃないですか。「オレは家庭も持ってないし、仕事も持ってない、あてもない旅をして帰ってきた……」。オネーギンは粗野なハミダシ者であると悪評を買ったりもするけど、こうしてブラブラしてて、それでもちゃんと華やかな社交界に帰って来れる場所があるんだから、文化資本的にはとても恵まれた人物であることにちがいないんすよね。でも言ってるセリフだけ聞いてると、現代だったら漂流するネットカフェ難民みたいな人物像が該当しなくもないわけで、仮にそうするとレンスキーとかタチヤーナはどういう設定にするのがふさわしいだろう……とか勝手演出を考えると楽しい。
●ちょい役みたいな感じだけど、再会したらタチヤーナが結婚していたという相手、グレーミン公爵も印象に残る人物で、薄っぺらに描かれがちなよくある「金持ちの年寄り」とは全然違う。終場でタチヤーナがグレーミン公爵を裏切らないのは必然だろう。でも、幕切れで、音楽は強烈なクライマックスを築くのに対して、「オネーギンが絶望する」という脚本の腰砕け感がどうもちぐはぐで落ち着かない。かといって安直に自死されても台無しだしなあ。プッチーニやヴェルディならどうやって終わらせただろうか。

April 08, 2008

映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」

●先日、朝日の夕刊見てたら、映画「つぐない」評が載ってたんだけど、思いっきり豪快に筋を割っていた。おかげで先日ご紹介したマキューアンの原作「贖罪」にとても忠実だってことはわかったんだけど、いいんすかね。

●これから上映される映画を一本ご紹介。映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」。これはもう「のだ◎め」どころじゃないっすよ、クラヲタ・ポイント突きまくりで。史実と虚構が実にバランスよくミックスされた本格伝記風映画、しかも全編ロシア語。しかし話の内容は字幕を読まなくてもなんの場面かわかりそうなくらい、音楽好きにはなじみ深いエピソードが続く。
映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」
●本筋としてラフマニノフと彼をめぐる女性たちっていう核があるんだけど、まあそれは置いといて(おいおい)、クラヲタ的に盛り上がれる場面を挙げてみる。たとえば、ラフマニノフの交響曲第1番初演大失敗シーン。史実として、この曲の初演は失敗だったんだけど、それにはオーケストラの演奏がひどすぎた、特に指揮をしたグラズノフが酔ってたっていう話があって、それをちゃんと映画内で再現してくれている。その場に臨席してたリムスキー=コルサコフがこれまた本物そっくりでおかしい(ていうかラフマニノフ役もかなり本物に似てる)。このとき、ロシア五人組の一人キュイが新聞で苛烈な批評を寄せた話は有名だ。「地獄の音楽院の課題にこの作品が交響曲『エジプトの7つの災難』として提出されれば、きっと地獄の住民を熱狂させるだろう」みたいなヤツ。あれもこの映画のなかでほんの一瞬だけど間接的に登場してサービス満点。
●で、音楽面のストーリーでハイライトになるのはピアノ協奏曲第2番、やっぱり。交響曲第1番で傷ついたラフマニノフが、精神科医ダールの治療で立ち直る。ダールがラフマニノフに向かって懐中時計をぶらぶら左右させて「あなたは眠くな~る」みたいなのをやってくれちゃう。まさに「のだ◎め」の千秋真一飛行機恐怖症克服の元ネタともいうべきシーンがここに!
●ロシア時代だけじゃなくて、アメリカに渡ってからのスタインウェイとの微妙な交流なんかも描かれていて、96分ながら中身はもりだくさん。虚構のさしはさみ方もうまい。ハリウッド的な快速テンポで語られる話ではないので、古典的なスケール感で悠然と味わうのが吉。4月19日(土)Bunkamuraル・シネマ、銀座テアトルシネマ他にて全国順次公開。

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April 01, 2008

ハーブに聴かせる名曲の調べ、健やかに生長

ワイルドな香りが芳しいイタリアン・パセリ 南東京市三角谷村でハーブ作り名人として知られる草村踏雄さん(88)が、クラシック音楽をハーブに聴かせる取り組みをはじめ話題を呼んでいる。名曲を聴きながらすくすくと育ったイタリアン・パセリはこの夏、フィッシュベル村で開催されるハーブ品評協議会に出品される予定だ。「美しい音楽は人間だけではなく植物も豊かに育てる」と耳にした草村さんは、村の音楽教育委員である蔵尾太郎さん(256)にハーブに聴かせる音楽について相談したところ、クセナキスの音楽が選ばれた。草村さんは朝、昼、夕方、夜、深夜と一日5回、「メタスタシス」や「ヘルマ」「プレイアデス」などが入ったCDを聴かせている。南東京市農業試験場によれば「使用しているスピーカーの出力が十分とはいえず、効果の有無は断定できない」(音響担当)とのことだが、草村さんは「音楽を聴かせるようになって以来、香りがより力強くなった。毎朝の水やりも名曲を聴きながらできるので楽しい」と喜んでいる。


March 31, 2008

レーベル横断的な定額音楽配信サービスという現実的近々未来

●何日か経ってしまったが、最近のニュースで一瞬わが目を疑い、何度も読み返してしまったのがこれ。

iPodで聴き放題サービス 米アップル、有料で検討

●「音楽大手と交渉を進めている」というニュースであって、詳細はなにもわからない。でも定額を支払えば(仮に)現在iTunes Storeに載っている音楽を聴き放題になるとしたら、確実にワタシの(そしてワタシだけじゃなく)世界は大きく変わる。仮に新譜は発売から一定期間制限が付くとしてもインパクトはそう違わない。
●これまで音楽ファンは、最初は「自分のライブラリがない」というゼロ地点からスタートして、気に入った曲とかアーティストを買い揃えながら(そしてときどき発作的なジャケ買いしながら)、「自分の好きな音楽」という神秘の領域を徐々に形成してきた。でも定額サービスがあれば最初から古今のメジャーから中堅レーベルまで、ごっそり全部(とは言わないが大量に)手に入るんすよ。財力とかヒストリーとか無関係の開かれた地平。「1回だけ聴きてみたいな」という軽い好奇心も好きなだけ満たせる。極楽だなこりゃ。その一方で、そこまで恵まれた環境で、特定のアルバムやレーベル、アーティストへの理不尽な愛着みたいなものがこれまでと同じように生まれてくるかどうかも気になる。
●続いて、こういうニュースもある。

定額音楽サービスへ名乗り:ソニーBMGのCEO、独紙に語る

●一度動き出したらこういう流れは止まらなくなる、という予感。

March 26, 2008

桜が咲いたらカラヤン生誕100周年

●生誕100周年になんらかの記念行事がある指揮者や演奏家ってスゴいと思う。どうがんばったって、記念演奏会に本人は出て来れないわけだし(いやまだ健在で現役なら別だけど)。作曲家は作品が何百年でも残り得るけど、演奏家は記録物しか残せない。
●そう考えるとやっぱりカラヤンというのは例外的な存在だと思う。記録物でも(しかも既存のものでも)、まるで本人が生きてるみたいに雄弁に何かを語っている気がする。映像でイベントが成立する指揮者ってほかに存在するんだろうか。

カラヤン生誕100年記念
サントリーホール カラヤン・フィルム・フェスティバル

オズボーンのカラヤン●映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとカラヤンの共同作業については、リチャード・オズボーンの『ヘルベルト・フォン・カラヤン』(白水社)にもあれこれ書かれていておもしろい(下巻のほう)。カラヤンのほうはクルーゾーに役者として使われる、つまり「カラヤンがカラヤンを演じる」ことになるのを危惧していたが、クルーゾーのほうはプロの俳優を嫌い、どんな素人からも名演技を引き出せると豪語していたという。この組み合わせはひとまず成功するわけだけど、ワタシらから見ると、ある意味「カラヤンはいつでもカラヤンを演じていた」ようにも見える。実際、メニューインとモーツァルトを共演したときは、先に録音しておいた音にあわせてカラヤン(とオーケストラ)は演奏しているふりをしなきゃいけなくなる。それって宇宙一本格派の「エア・コンダクター」じゃないか。しかもそれがカラヤンほど似合う人はいないだろうし、カラヤンほど嫌がった人もいないんじゃないかという気もする。
●もう一つ、こちらは音のほうの記念企画。衛星デジタルラジオのミュージックバードの「カラヤン伝説2008」。4月5日からスタート、目玉はオーストリア放送協会提供のライブ音源。高音質が売りの局なので、チューナー&アンテナが必要だけど、聴ける方はどうぞ。

March 14, 2008

冬の旅、黄色い雨

冬の旅●以前から不思議だったんだけど、「好きな歌曲」みたいなアンケートを採ると、必ずといってもいいほど第1位がシューベルト「冬の旅」になるんすよ。もちろん名曲なんだけど、なにしろ描かれているのが孤独と絶望、死じゃないですか。作曲者が生前、友人たちに聴かせたところ、曲のあまりの暗鬱さにみんなドン引きしたっていう話があるけど、それも当然だと思う。恋に破れて疎外感とか孤独を味わっているうちはまだ「この世」側にいるけど、幻に襲われたり、墓場をうろついて安らかに眠る死者と出会ったりするのは「あの世」側なわけで、心躍る作品とはいいがたい。でもなんか琴線に触れるところがあるってことなのか、日本人には。
●いや日本人だけじゃないか。孤独を突きつめると詩が生まれる。ってことなのかもしれん。
黄色い雨●もっとも孤独な物語といえば? フリオ・リャマサーレスの「黄色い雨」だろうか。一人また一人と人々が村を去り、廃村となりつつあるアイニェーリェ村にたった一人だけ留まった男の物語だ(背景としてスペイン市民戦争があるのだが、具体的には何も言及されない)。主人公以外には死人と犬一匹しか出てこない。いや、主人公すら生きていないかもしれない。孤独と沈黙、忘却、幻想と狂気のなかで静かに死を待つ男の姿を描く。すると詩になる。「冬の旅」が「冬」であることに疑問を持つ人はいないが、「黄色い雨」を読むと、冬を終えてやってくる春こそが孤独と喪失にふさわしいと気づく。

雪は三、四日で完全に溶けた。その後、雪解け水が村に近い傾斜地の最後に残った側溝を破壊し、通りを泥水で覆い尽くした。それと同時に、家々がその切断された手足や骨をむき出しにしはじめた。あたり一面が雪に覆われている時は、昔のアイニェーリェ村と変わりないように思えたが、陽射しが以前の亀裂や荒廃ぶりだけでなく、この冬が無残にも破壊した家々を白日の下にさらけ出した。(中略) 私は以前住んでいた人たちのことを思い返しながら、そうした建物のあいだを歩きまわり、キイチゴの茂みに覆われた玄関から家の中に入り、荒れ果てた台所や部屋の中を見てまわったが、その姿はおそらく兵隊が全員脱走したか、死体に変わってしまった塹壕にひとり戻ってきた狂った将軍を思わせたにちがいない。

 凄絶な春の到来である。もっとも雪が融けて、埋もれていたものが出てくるからこその春であって、積雪しない土地ではこの光景はピンと来ないかもしれない。春になって泥水から出てくるのは何かといえば、それは幽霊なのだ。

March 07, 2008

不条理ドラマ「マノン・レスコー」

●もう20年以上も大昔なんだけど、ディーン・R・クーンツ「ベストセラー小説の書き方」を読んで(←そんなの読むなよっ)、いまだに覚えている「ベストセラーの条件」ってのがいくつかあって、そのひとつが「主人公は愚かであってはならない」。主要登場人物がバカすぎると読者は共感してくれない、と。いま一つピンと来なかったんだけど、クーンツは実際にベストセラー作家だから、そんなものかと記憶に残った。
プッチーニ●で、「METライブビューイング」で見てて思い出したんだけど、プッチーニの「マノン・レスコー」ってクーンツに叱られそうな脚本っすよね。マノンは愛よりもお金、というか、愛があれば富がほしくなるし、でもセレブ(ていうか愛妾か)になって愛を失うと愛のほうが大事に思えて、結局すべてを失う。まるで水面に映った骨をくわえた己の姿を見てワンと吠えた犬みたいな女子で、これは普遍のテーマだからいいとしても、デ・グリューまでいっしょになって愚かなのがやるせない。
●デ・グリューがどうして第4幕までマノンに誠実でいられるのかがわからない。いや、それ以上に途中でマノンのお兄さん(この人のやることは一から十まで動機不明で銀河最大の謎)が、大臣の屋敷でマノンに向かって言うじゃないですか。「実はデ・グリューはお前を助け出すために、いま一生懸命賭博に打ち込んでおる。この私が指南してやったからきっと大丈夫だよ、ワハハハハ」。って、それダメすぎじゃん!!  デ・グリューは努力の方向をまちがいすぎ。「麻雀放浪記」じゃないんだから。あなたドサ健気取りですか。そんな愚かすぎるデ・グリューが、愛に生きてムダ死にするから、ホント、第3幕以降は見てらんない。おい、どうしてお前さんまでアメリカに島流しになるんだよ! 落ち着け、デ・グリュー。
●でもなー。音楽的には最高なんですよ、「マノン・レスコー」は。アリアはみんなすばらしいし、ステキな間奏曲もあるし、第2幕の終わりのジェロンテが憲兵を呼んで来るあたりのスリリングな場面なんかも本当にドキドキする。
●第3幕の港のシーンは、マノンが娼婦としてフランスの植民地であるルイジアナに売り飛ばされるっていうことなんだけど、「罪を犯してアメリカに島流し」っていうのが今はなかなかわかりにくいよなー。きょうびアメリカから追放される人はいっぱいいるけど、アメリカに追放される人はなかなかいない。で、4幕で砂漠をトボトボと二人で歩いてて、いきなりもう衰弱して死ぬしかない状況に追い込まれていて、3幕と4幕の間に何が起きたのか全然わからん(また逃げたの?)。砂漠で水も食料もなく、地平線までなにもない。ある意味、もっとも見たくない陰惨な死の光景。で、なぜかここで同じくプッチーニの「西部の娘」のラストが勝手に脳内混信してきて、いつの間にかワタシの頭の中では「西部の娘」の二人、ミニーとジョンソンが砂漠の中の絶望的な逃避行をしていることになっている。
●今の商業映画だったら、第4幕はハッピーエンドに書き直せってプロデューサーから命じられるかもしれない。賛成しなくもない。ただ砂漠の真ん中で二人が救われるには、どんなプロットを用意すればいいのやら。クーンツ先生ならきっと超自然の力でなんとかしてくれるのかもしれないが。

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