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September 27, 2013

「レヴィ=ストロースと音楽」(ジャン=ジャック・ナティエ著/添田里子訳/アルテスパブリッシング)

レヴィ=ストロースと音楽●リーバイ・ストラウス、じゃないや、「レヴィ=ストロースと音楽」(添田里子訳/アルテスパブリッシング)。著者は「音楽記号学」のジャン=ジャック・ナティエ。音楽と神話は言語が生んだ兄弟であるとして、音楽と神話にホモロジー(相同性)を見出すレヴィ=ストロース。いくつかの章を拾い読んだところだが、さすがにレヴィ=ストロースが音楽について語った部分はおもしろい。なにしろラヴェルの「ボレロ」を「平らになったフーガ」(!)として構造化されているっていう人なんだから。
●とはいえレヴィ=ストロースの言葉だけ拾ってると必然的にぜんぶ孫引きになってしまうわけで、だったら原典を読めばいいじゃないの、これナティエの本なのにそれってどうよってことになりかねないわけだが、それでも堂々と拾ってしまおう、ナティエの読者じゃないから。この本のカバー自体にも「音楽じたいが人文科学の最後の謎となり、人文科学はそれに突き当たっているので、この謎が人文科学の進歩の鍵を握っているのである」(レヴィ=ストロース『生のものと火を通したもの』より)と引かれていることだし。
●ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルジファル」の比較について。

どうして「パルジファル」の第3幕が「マイスタージンガー」のヴァリアントであることを疑えるだろう。どちらも歳をとった経験豊かな男(グルネマンツとザックス)が、なみはずれて才能にめぐまれたひとりの青年にみずから称号を与え、引き下がるのである。どちらも、二人の長い対話のあとに祝典の行進がつづき、この二つの場面のあいだには沈静の場面があって、一体性がとり戻される(「聖金曜日の奇蹟」または「五重唱」)。この一方をしかるべく分析するには、もう一方を知って、介在させなければならないだろう」(p.47 構造主義者レヴィ=ストロース)

●おお。ワーグナーをもう一丁。レヴィ=ストロースはワグネリアンであり、トリオやオペラの序曲の作曲に挑み、作曲家にならなかったことを後悔したという。

 レヴィ=ストロースは、愛の断念のモティーフの二度目の出現を分析にとりあげるとき、どんな意味を与えているだろうか。それは「ワルキューレ」の第2幕第2場で、ヴォータンが「わたしはだれよりも惨めだ」と叫ぶときに現れる。「音楽のモティーフの回帰は、愛にまかせて自由な人間を生んだヴォータンの失敗と、愛のない結婚によって自分の意思に隷属する人間を生んだアルベリヒの成功とのあいだに、相関と対立の関係があることを強調している。それゆえジークムントとハーゲンは、たがいに対称でしかも逆転しているようにみえるのである。(…)ジークムントは失敗した試みとして、ジークフリートを先取りしている」(p.70 レヴィ=ストロースとワーグナー)
●実に切れ味鋭いっすよね。「指環」における人物相関を、ヴォータン/アルベリヒ組、ジークムント/ハーゲン組、ジークフリート/グンター組と配置して見せる。特に「アルベリヒの成功」と「ヴォータンの失敗」という対照には思わずポポポーンと膝を打つ。

●引用魔になった勢いで、本書でも言及されている「悲しき熱帯」のマト・グロッソでショパンの練習曲作品10-3(「別れの曲」のことだが)のメロディを思い出すシーンを引っ張っておこう。こっちは「悲しき熱帯」から直接引用。

 なぜショパンだったのだろう? ショパンが特に私の好みという訳でもなかったのに。ワグナー崇拝の中で育った私は、ドビュッシーを見出したのも極くあとになってからのことだった。(…)だが、私がフランスを去る時には、私の必要としていた精神の糧を与えてくれたのは、「ペレアスとメリザンド」だった。それなのになぜショパンが、それも彼の作品としても、最も凡庸なものが、荒れ野の中で私に取り付いたのだろう? 本来しているべき観察に精を出すよりもこの問題を解くのに心を奪われていた私は、ショパンからドビュッシーへ移るということのうちにあった進歩が、逆向きに起こる時には、おそらく拡大されるのだろうと思ってみたりした。私にドビュッシーを好きにさせたあの悦楽を、そのとき私はショパンのうちに、はっきりとは自覚されない、まだ不確かな形のまま味わっていたのであろう。(「悲しき熱帯」II 第9部 回帰/川田順造訳/中公クラシックス)

●このショパンにドビュッシーを聴くってのは、ボレロに平らになったフーガを聴き、「マイスタージンガー」に「パルジファル」を見るってのと一脈相通じるところがある。でも、ここまで来ると、いいじゃん、実はショパン大好きでしたでも、と思わんでもない(笑)。