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2018年12月アーカイブ

December 28, 2018

2018年 心に残る演奏会7選


●さて、いよいよ今年もあとわずか。本日が年内最後の更新なので、2018年をふりかえって「心に残る演奏会7選」を以下に日付順で。トップ5でもなくトップ10でもなくトップ7。各公演についてはそれぞれ公演後にこのブログで感想を述べているのでくりかえさないが、ひとつだけ書いておくと、カタリーナ・ワーグナーの怪演出による新国立劇場「フィデリオ」。悪役プロレスラーがめったに決まらない大技を反則承知でかけて場内総立ちになった、みたいな快感があった。ひどい話になってたけど、最高におもしろかった。


ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル(すみだトリフォニーホール)3/17

新国立劇場 ベートーヴェン「フィデリオ」(カタリーナ・ワーグナー演出) 飯守泰次郎指揮東京交響楽団 5/30

フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮レ・シエクル ストラヴィンスキー「春の祭典」他(東京オペラシティ) 6/12

マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(東京オペラシティ) 8/1

シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団 ラヴェル「ラ・ヴァルス」他(サントリーホール) 9/28

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団 マーラー 交響曲第1番「巨人」他(NHKホール)10/18

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 モーツァルト「フィガロの結婚」演奏会形式(ミューザ川崎) 12/7


●年末年始の当欄は例によって不定期更新で。よいお年を。
●おっと忘れるところだった、ひとつ宣伝を。大晦日の深夜23時~25時、FM PORTの年越し特番「Goodbye2018 Hello2019」に生出演します。新潟県内の方は電波ラジオでもラジコでも聴取可、全国の方はラジコ・プレミアムの利用者なら聴取可。ぜひ。当日に新潟入りするのだが、大雪になりませんように。

December 27, 2018

「くるみわり人形」(E.T.A.ホフマン作/村山早紀 文/ポプラ社)

●ディズニー映画「くるみ割り人形と秘密の王国」が公開されたというのに、ワタシの周囲は映画といえば「ボヘミアン・ラプソディ」の話ばかりで、ぜんぜんディズニー映画の評判が聞こえてこない。クリスマスも過ぎたけど、「くるみ割り人形」ブームは来ないのだろうか。
●で、ディズニー映画は見ていないのだが、先月「ポプラ世界名作童話」として刊行されたばかりの「くるみわり人形」(E.T.A.ホフマン作/村山早紀 文/ポプラ社)を読んでみた。E.T.A.ホフマンの原作については、以前に光文社古典文庫の「くるみ割り人形とねずみの王さま」など、当欄でこれまでにも触れていたと思う。チャイコフスキーのバレエでは主人公の名がクララだが、原作ではマリーだ(ちなみにディズニー映画ではチャイコフスキーに合わせてクララになっている)。バレエでは描かれない、ネズミたちとの対立の歴史や激しいバトルシーンなどがあり、ダークなメルヘン・テイストもあって、原作にはバレエ版にはない奥行きがある。このポプラ世界名作童話版は、児童向けとあって読みやすく、うまく整理されていて、とてもいい。もちろん、原作から省略されている部分はたくさんあって、ぐっと短くなっているのだが、基本的な筋立ては変わっておらず、児童でも理解可能な範囲で原作を尊重しようという姿勢は伝わってくる。
●で、このポプラ世界名作童話版をところどころ光文社古典文庫版と比較しながら読んだので、備忘録として違いをメモしておこう。これは児童向けに本を作る際に、どういうところに手を入れるのかという点でなかなか勉強になる。まずは人の呼び名。光文社古典文庫版では、「上級裁判所顧問官」とか「医事顧問官」という呼び名が頻出する(訳注によれば称号の顧問官とは Rat と記すのだとか!)。これは児童書どころか大人向けの一般書でも、なんのことかわからない言葉で、もちろんポプラ世界名作童話には出てこない。「上級裁判所顧問官のドロセルマイアーさん」は、ただの「ドロッセルマイヤーおじさん」になる。ネズミたちとの前日譚パートで登場する王女「ピルリパット」の名前は「キラキラひめ」になっていた。なるほど。ほかに人名以外にも「グロッケンシュピール」とか「パンタローネ」みたいな、注釈がなければわからないような言葉は、もちろん児童書では使えない。
●もうひとつ気が付いたのは、イエス・キリストへの言及が削られていること。これは日本の児童書としては当然だろう。「イエスさま」が出てきてしまうと、そこで膨大な説明が必要になって、本筋が追えなくなる。ただ、代わりにサンタクロースが出てくるんすよ。これは原作にはないと思うのだが、過去のストーリーを語る部分で、旅の商人について「ひとのすがたをした神さま──サンタクロースだったのかもしれません」という記述があって、微妙にクリスマス成分が強化されている。ホントはサンタクロースは神さまじゃないけど、八百万神前提の日本としては一種の「福の神」という理解はありえるのか。
●あと、マリーが化けネズミをめがけてスリッパ(靴)を投げないんすよ。代わりに、身を挺してくるみ割り人形を守る。主人公から暴力要素を排除するということなのかもしれないけど、ここはマリーも戦ってほしかった。自己犠牲を払うんじゃなく、自ら行動する女の子であってほしい。

December 26, 2018

Kindle Paperwhite のニューモデル

●読書専用端末としてKindle Paperwhiteのニューモデルを導入した。使ってみて納得の快適さ。スマホの画面とは異なり、E Inkディスプレイが使われており、まるで紙のように読みやすい。予想以上に軽いのにも驚いた。画面はモノクロなので、カラフルな雑誌等を読むのには向いていないが、一度の充電で数週間使えるという気楽さは吉。もっとも、スマホに比べると処理速度が遅くてモッサリ感があったりとか、なにかと割り切った設計ではある。しかし読書において不都合はなにもない。高解像度できれい。
●これまで電子書籍を読む際は、スマホやタブレットにAndroid用のKindleアプリをインストールして読んでいたのだが、読書用に持ち歩いていた古いNexus 7を引退させて(粘って使い続けたが、もうバッテリーが限界だ)、代わってKindle Paperwhiteを常用することに。いちばん期待しているのは睡眠前の読書で、眠る前に輝度の高いタブレットの画面で本を読むと、どうも寝つきが悪くなる(気がする)。しかしE Inkディスプレイなら直接目を照らさないフロントライト方式なので、睡眠への影響が軽減されるんじゃないかな、と。まあ、実際のところはやってみないとわからないけど。もちろん、本なんて読まずにさっさと寝るのがいちばんなのはわかっている。でも、長年の習慣なので。
●別にサンタさんからもらったという話ではない。

December 25, 2018

成田達輝×阪田知樹 デュオコンサート Music Program TOKYO シャイニング・シリーズVol.4

●21日は東京文化会館小ホールで成田達輝(ヴァイオリン)と阪田知樹(ピアノ)のデュオ。プログラムがとても魅力的。前半にシュニトケ「きよしこの夜」、シマノフスキの「神話」、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ ト長調、後半はそれぞれソロが一曲ずつあって、ラヴェルの「道化師の朝の歌」、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番ホ長調、締めくくりにフランクのヴァイオリン・ソナタ イ長調。攻めたプログラムだが客席はほぼ埋まっている。最初のシュニトケ「きよしこの夜」がクリスマス・シーズンらしい選曲ではあるわけだが、原曲から逸脱して調子っぱずれな音が鳴ると客席がどよめいて、笑いが起きる。率直な反応が出て、とてもいい雰囲気に。
●シマノフスキの「神話」はなかなか聴けない曲だけど、終曲がドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と共通する題材なのがおもしろい。ヴァイオリンのハーモニクスで牧神の笛を表現しているっぽい。弦楽器で笛を模すとは。第2曲「ナルシス」の自己陶酔ぶりも吉。フランクのヴァイオリン・ソナタでは白熱した演奏のおかげか、第2楽章の終わりで思わず拍手が客席から一瞬飛び出たが、それも納得。アンコールにパガニーニ(プシホダ編)のソナチネ op.3-6。驚異的な技巧の冴え、勢いのある表現、みずみずしくつややかなヴァイオリンの音色を全編にわたって堪能。成田さん、すごすぎ。
●今年はうまく日程が合わず久々に「第九」を一度も聴けないので、早々と年内の演奏会は聴き納め。夏はシーズンオフといいつつも音楽祭などが案外多いので、年末年始がいちばん演奏会が減る時期かも。
●サンタさん、そろそろ来るかなー。サーバーが軽い、クリスマスイブ。

December 21, 2018

「数字を一つ思い浮かべろ」 (ジョン・ヴァードン著/文春文庫)他

●なにか一冊、読みやすくておもしろい最近のミステリはないかと探して見つけたのが「数字を一つ思い浮かべろ」 (ジョン・ヴァードン著/文春文庫)。これはいい。リタイアしたばかりの名刑事が事件に巻き込まれるといった体裁で、渋めのトーンで描かれる主人公周りの人間模様と、犯人側の派手な仕掛けとのコントラストが味わい深い。書名にもなっている大仕掛けに、犯人が被害者に対して手紙で「1000までの数字をどれかひとつ頭に思い浮かべろ」と求め、その数字を鮮やかに的中するというものがある。そのトリックが、なんというか、いかにもワタシ自身が好みそうな手口だったんすよ! 納得感ありすぎて、そこの部分だけは犯人側に共感できる。
●以前、当欄でご紹介した二流小説家」(デイヴィッド・ゴードン著/早川書房)が文庫化されている。これはジャンル小説専門の売れない作家が獄中の連続殺人鬼から告白本を書いてくれと頼まれるという話で、かなり可笑しい傑作。あるとき同じ著者の別の本を読もうかどうか迷って、そういえば旧作の「二流小説家」はどんな話だったけな……と本を読み返してみたら、ぜんぜん話の展開が思い出せない。あれれ、これって、その後どうなるんだっけとページをぺらぺらとめくっているうちに止まらなくなって、結局、最後まで再読してしまった。フツーに楽しく読めた。すごい勢いで自分の記憶が薄れていることを発見。なんかもう、新しい本を買わずにお気に入りの二周目をやってれば、それでいいんじゃないのかって気になる。

December 20, 2018

アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団のスペイン・プログラム

●19日は東京文化会館でアラン・ギルバート指揮都響。プログラムはリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」、ビゼーの「カルメン」組曲より(アラン・ギルバート・セレクション)、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。つまりスペイン人作曲家のいないスペイン・プログラム。前半の「ドン・キホーテ」ではチェロのターニャ・テツラフ、ヴィオラの鈴木学の両ソロが冴えまくっていた。ユーモラスのようでいて毒も吐く、壮麗なのに苦々しい管弦楽絵巻。後半はぐっと軽快なプログラムで、生き生きとした演奏を楽しむのみ。前回同様、このコンビのサウンドは明瞭明快。オーケストラがきれいに掃除されたかのような気持ちよさ。土臭さよりは都市の洗練を感じさせるスペイン特集たった。
●シュトラウスの「ドン・キホーテ」といえば、プログラムノートにもあったように「英雄の生涯」と対をなす作品。ちょうど先日のノット指揮東響でその「英雄の生涯」を聴いたばかりで、自然発生的に2曲のシリーズができあがった。ドン・キホーテもまたヒーローであり、その交響詩も一種のヒーローズ・ライフを描いている。となれば、両交響詩の主人公は同一人物とも解せる。ある人生をひとつの側から描けば「英雄の生涯」になるが、別の側から描けば「ドン・キホーテ」になる。これはよくあることで、自分では「英雄の生涯」冒頭主題が雄渾に鳴っていると信じているのに、身近な他人にはそれが「ドン・キホーテ」冒頭の脱力気味のオトボケ木管主題として響いていたりする。人のやることなんて、だいたいはそんなもの。人生は色とりどりの妄想の堆積物。そう思って聴くと2曲の類似点は少なくない、きっと。

December 19, 2018

ダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団の「田園「巨人」

●18日はサントリーホールでダニエル・ハーディング指揮パリ管弦楽団。プログラムはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」とマーラーの交響曲第1番「巨人」。カッコウのさえずりが聞こえてくる自然賛歌的な要素を持つ2曲の交響曲が並ぶ。弦は今や標準化しつつある対向配置。ハーディングは札幌公演の際に凍結した路面で転倒し、右足首を骨折したということで、車椅子で登場して椅子に座っての指揮。なんと、先般のズービン・メータ指揮バイエルン放送交響楽団に続いて、またしても車椅子の指揮者が座って指揮する「巨人」を聴くことになった。その意味合いは著しく違うわけだが……。
●後半の「巨人」が鮮烈。ハーディングの十八番であちこちのオーケストラで同曲を振っているだけに、趣向が凝らされ、練り上げられた解釈といった感。オーケストラの音色は明るく華やか、管楽器は名手ぞろい。スケルツォの切れ込みが鋭い。第3楽章のコントラバスはソロで、これが朗々と滑らかに歌われる。先日のバイエルン放送交響楽団でも同様に感じたけど、ソロ・コントラバスの流麗さというのは作品の想定外の味わいでは。終楽章は輝かしく壮麗。クライマックスへと猛進して、客席からは盛大なブラボー。「巨人」は今年だけでもブロムシュテット指揮N響、メータ指揮バイエルン放送交響楽団の名演があって、聴かなかったけどつい最近ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルもあって、すごい演奏頻度なのだが、これだけ客席が熱くなる曲もそうそうない。ホルン隊が起立したときの視覚的なインパクトも抜群。
●ハーディングはカーテンコールができないので、ずっと指揮台上で喝采にこたえて、アンコールにエルガーの「エニグマ変奏曲」から「ニムロッド」。とてもエモーショナルで、官能的。客席はスタンディングオベーション多数。楽員が退出後も拍手が止まず、長く待った末に、上着を脱いだハーディングが杖をついて登場してソロ・カーテンコール。
●「巨人」の第1楽章、舞台裏で吹いていたトランペットがそっと入場することになるわけだが、黒服の男たちが静かに歩いてくる様子を見て、いつも葬列を連想するのはワタシだけだろうか。まるで第3楽章を予告するかのよう。

December 18, 2018

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のヴァレーズ&シュトラウス

●15日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。プログラムがすごすぎる。前半がヴァレーズの「密度21.5」と「アメリカ」(1927年改訂版)、後半がリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。ステーキの食後に鰻重みたいなハイテンション・メニュー。
●というか、一曲目の「密度21.5」は無伴奏フルートのための曲なわけで、オーケストラ曲ですらない。同楽団首席奏者の甲藤さちが演奏。どんな立ち位置で演奏するのかなと思ったら、前半2曲を拍手なしで続けて演奏するということで、最初から「アメリカ」の特大編成が舞台いっぱいに広がり、そのなかでポツンとフルートがただ一人演奏するというドラマティックな趣向。「アメリカ」冒頭がアルト・フルートで開始されるということで、フルートつながりで結ばれた2曲だが、洗練されたフルート・ソロの世界から、暴力的なほどの爆音が続く荒々しい世界へと飛躍するという、すさまじいコントラスト。山あり谷ありじゃなくて、山あり山ありで、どんどん山に対して感覚が麻痺してくる。うっすら漂うストラヴィンスキー「春の祭典」風味。苛烈。「もうそんなに食えないよ」って言ってるのに、ステーキが口の中に勝手に入ってくるくらいの飽和状態。
●「密度21.5」は初演者のフルートの材質であるプラチナの密度に由来するということなんだが、すごくないすか、プラチナ。鉄だって7.87なのに21.5もあるんすよ! 鉄パイプよりはるかに高密度なプラチナ・フルート。装備するとかなり強そう。
●後半の「英雄の生涯」、通常なら雄々しく奏でられる冒頭の英雄の主題だが、いくぶん柔和にふわりと始まった。先に巨大な「アメリカ」に接しているので、いつもは一大スペクタクルの「英雄の生涯」が相対的に小さく見える。最初から過去を懐かしんでいるかのようなノスタルジックな英雄像というか。実際に前半で消耗していた部分もあったとは思う。決して慣習的ではなく、鮮度は高い。次第に「アメリカ」での麻痺から解放されて、起伏に富んだ音のドラマに没入する。
●この日、配られていたチラシの束のなかに、本の注文書が一枚入っていた。休憩中に著者にお会いしたので勝手に宣伝しておくと、沼野雄司著「エドガー・ヴァレーズ 孤独な射手の肖像」(春秋社)がもうまもなく発刊される。全560ページからなる、日本語初のヴァレーズの本格的評伝。これはスゴそう。

December 17, 2018

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団

●12日は東京オペラシティでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル。ソリストにヒラリー・ハーンを迎えた豪華仕様で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲、バッハのヴァイオリン協奏曲第1番および第2番(ヒラリーに2曲弾いてもらえて嬉しい!)、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」。いろいろなオーケストラでポストを務めるパーヴォだが、ドイツ・カンマーフィルとのコンビからは特別な絆というか、ファミリー感が伝わってくる。ピリオド・スタイルのオーケストラにパーヴォらしい推進力が加わって、キレッキレのシャープな音楽。ヒラリー・ハーンは磨き抜かれた天衣無縫のバッハ。オーケストラ側とはまったくちがったアプローチのバッハなんだけど、彼女のスタイルで突きつめられた完成された芸術。つい最近リリースされたバッハの無伴奏アルバムも印象的だった。アンコールはやはりバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番から第2楽章「ルール」、さらに第6楽章「ブーレ」も。
●後半の「ザ・グレート」は快演。作品の持つ歌心やのびやかさと、パーヴォとオーケストラの鋭さ、細かなところまで意匠を凝らしたダイナミクスの設定が活かされて、たいへんな雄弁さ。怪物的な作品だなと改めて思う。リリカル・モンスター・ザ・グレート。アンコールはシベリウスの「悲しいワルツ」。十八番。なんども演奏する内にどんどん解釈が究められて、過剰なほどに彫琢された精巧な演奏に。
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●宣伝。ONTOMO連載「耳たぶで冷やせ」の第9回は、「待てない『第九』」。この年末も容赦なく歓喜がやってくる。

December 14, 2018

「翻訳地獄へようこそ」(宮脇孝雄著/アルク)

●「バーミンガム市交響楽団」の文字を目にするたびにモヤッとした気分になるのは、おそらくワタシだけではないと思う。若き日のサイモン・ラトルの躍進とともに飛躍的にその名を聞く機会が増えたオーケストラだが、なぜここだけが「バーミンガム市」と呼ばれるのだろうか。イギリスであれどこであれ、日本以外のオーケストラの名前に「市」が付く例があったか、思い出せない。City of Birmingham Symphony Orchestra をそのまま訳したといえばそうなのだが……。
●が、ある日、「翻訳地獄へようこそ」(宮脇孝雄著/アルク)を読んでいて疑問が氷解した。これは翻訳家による上質なエッセイ集で、巷にあふれる珍妙な日本語訳についての実例も豊富に挙げられていて、出版関係者なら背筋が凍ること必至の一冊なのだが、ここで「バーミンガム市交響楽団」の例が小さく取り上げられていた。「小説で知ったイギリスにおけるcityの意味」という章があって、「主教が在任する聖堂のある町をイギリスではcityと呼ぶ」のだとか。バーミンガムにも主教が在任する聖堂がある。だから、ここでのcityを「市」と訳出する必要性はない。この章ではそのcityの意味を正しく把握できずにおかしな訳に至った小説の例が挙げられていて、ついでに「バーミンガム市交響楽団」が出てきた次第。
●この本はとても楽しく読めて、なおかつためになる。誤訳の例はたくさん挙げられていても決して告発の姿勢になっていないところがいい。翻訳書を読んでいて「あれ? なんだかヘンだな」と感じることはよくあると思う。ひどい場合は、日本語なのにまったく意味がわからない文章が出てくる(担当編集者はこれを理解できたのだろうか?……と首をかしげることもたびたび)。ある翻訳小説のこんな一例が挙げられていた。

「あなたはずっと寛大でいてくれましたね。ぼくの大言壮語にも、寛大でいてくれるでしょう?」

一見、日本語としては問題がなさそうだけど、「大言壮語」が引っかかるということで原文にあたると big mouth が出てきた。ここでの正しい意味は「おしゃべり」。ほかの言葉も吟味した結果、正しい解釈はこうなるという。

「きみの負け方は実にいさぎよかった。勝ったぼくを恨んだりしてないよな。それに、よけいなことをぺらぺらしゃべったかもしれないけど、もう忘れてくれ」

なんという明快さ。この引用文だけを見ても場面が目に浮かぶようなわかりやすさがある。同時に翻訳というものがどれだけ難しいか、どれだけ多くの罠が潜んでいるかに戦慄する。
●もうひとつ、この本で膝を全力で叩いた一節があって、それは「文脈で意味合いが変わる "decent" をどう訳すか」の項。decentという言葉には悩まされたことがある。ワタシは日頃英語に接する機会はほとんどないのだが、唯一例外として、イギリス製のPC用ゲーム Championship Manager にとことんハマっていた時期がある。これはフットボール(=サッカー)クラブ・マネージメント・シミュレーション・ゲームとでもいうべきゲームで、実在するクラブのマネージャー(オーナー兼監督)になって、選手を売買したり育成したりできるというもの。日本語版がないので、必死に辞書を引きながらプレイした。ゲーム内で、自分のクラブにいる無名の若手が有名選手に育ったりすると、とてもうれしい。で、たくさんいる無名の若手に対するスカウトの評価を見ると、やたらと decent player と呼ばれる選手が見つかる。辞書によれば、decentとは「きちんとした」「感じのいい」。ワタシはこれを「まずまず見込みのある選手である」と理解して、decentな若手を積極的に試合で起用し、経験を積ませていたのだが、ちっとも能力が伸びてこない。何人もの選手で試したが、だれひとり、トップチームで活躍できないのだ。どんなにがんばっても育たないので、やがてワタシはdecentを「凡庸な」と解するしかなくなった。この本ではdecentについて、ランダムハウス英和辞典にある「非難される点がないといった消極的な意味を持つ」という説明が紹介されたうえで、文脈による訳語の変化が解説されていて、いろいろと腑に落ちる。

December 13, 2018

新国立劇場「ファルスタッフ」(ジョナサン・ミラー演出)

ファルスタッフビール●12日は新国立劇場でヴェルディの「ファルスタッフ」。ジョナサン・ミラー演出の再演。カルロ・リッツィ指揮東京フィル、キャストはロベルト・デ・カンディア(ファルスタッフ)、マッティア・オリヴィエーリ(フォード)、エヴァ・メイ(フォード夫人アリーチェ)、村上公太(フェントン)、幸田浩子(ナンネッタ)、エンケレイダ・シュコーザ(クイックリー夫人)他。17世紀オランダ絵画にインスピレーションを得たという舞台でくりひろげられる正調ファルスタッフ。笑い成分はほどほどで、バランスの取れた演出。リッツィの指揮は勢いがあって、大らか。昼公演ということもあってか、リラックスして楽しむべき「ファルスタッフ」だった。フォード役がお気に入り。歌もスマートなルックスも。
●ヴェルディの作品のなかで、もっとも愛すべき作品というか、共感できるのが「ファルスタッフ」。こういう太っちょで野卑でルール無視、でも憎めない人物って、現代社会ではなかなか許容されがたくなってきてると思うんだけど、そういう意味ではオッサン・ファンタジー。そして、この作品は肉オペラでもある。肉礼賛。ビバ脂肪。ファルスタッフは言う。「肉をつければモテる」。それだけじゃない。テムズ川にドボンと落とされても、肉がついていたから助かった。たしかに脂肪が多いと人間は水に浮きやすいと、水泳サイトを見ると書いてある。もしファルスタッフが糖質オフとか脂質オフなんてやってたら、彼に第3幕が訪れることは永遠になかった。肉は命を救う。
●台本はボーイト。原作はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」をベースに「ヘンリー四世」が取り入れられているということだが、終場は「夏の夜の夢」を想起させずにはおかない。真夜中の森、妖精の女王、複数カップルの結婚式というモチーフはまさしく。後に書かれるブリテンのオペラを連想する。ボーイトの台本でひとつ不足を感じるのは、フォードがフォンターナを騙ってファルスタッフにアリーチェを口説いてほしいと依頼するところで、あの展開は唐突で不自然だと思う。原作の「ウィンザーの陽気な女房たち」のあらすじを読むと、もう少し自然な流れがありえたようにも。
●正確な訳詞は覚えていないんだけど、「キャベツの芯で撃たれる」みたいな言葉が出てくるじゃないすか。あれってなにか成句とかになってるんだろうか。豆腐の角に頭をぶつけて……みたいな?(違うか)。ふと思い立って「キャベツの芯」で検索してみても、クックパッドとかのレシピしか出てこない。とりあえず、キャベツの芯には栄養があって、工夫次第でおいしく食べれることはわかった。

December 12, 2018

アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の「春」プログラム

●10日はサントリーホールでアラン・ギルバート指揮の都響。メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、シューマンの交響曲第1番「春」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」というプログラム。シューマンとストラヴィンスキーで一足早い「春」つながり。「フィンガルの洞窟」は夏の風景だとは思うけど。少し前に、同じ場所でギルバート指揮NDRエルプフィルのブラームス他を聴いたばかりだが、最初のメンデルスゾーンからその続編を聴いているかのような錯覚に陥る。NDRエルプフィルで耳にした明瞭、明快なサウンドは都響でもほぼ同様。シューマンではいっそう明るさが前面に出て、輝かしい春の到来に。シューマンの交響曲らしからぬほどの清澄さ。この曲、「春」という名に反して、混濁した響きのなかで鬱々とした暗い情念が渦巻く曲だと思っていたのに、目から鱗。終楽章の風に舞うようなフルートのソロが爽快。後半の「春の祭典」もダイナミックで十分にすばらしかったんだけど、シューマンがもっとも印象に残るという予想外の一夜。
フィンガルの洞窟
●スコットランドのスタファ島にあるフィンガルの洞窟。中に入ると老人が住んでいて貴重な情報を教えてくれるか、ワープポイントとかありそうな雰囲気。

December 11, 2018

トーマス・ヘンゲルブロック指揮NHK交響楽団のバッハ・プログラム

NHKホール前の「青の洞窟」2017
●8日はNHKホールでトーマス・ヘンゲルブロック指揮N響バッハ・プログラム。今やシンフォニー・オーケストラの演奏会でオール・バッハを聴く機会はなかなかないのだが、一捻りしたプログラムで、前半に管弦楽組曲第4番、シェーンベルク編曲の前奏曲とフーガ「聖アン」、後半にバルタザール・ノイマン合唱団との共演でマニフィカト ニ長調のクリスマス用挿入曲つきバージョン。さらにヨーロッパのクリスマスでの演奏習慣に従ってということで、マニフィカトの後にクリスマス・オラトリオから第59曲コラール「われらはここ馬槽のかたえ 汝がみ側に立つ」。クリスマス感、全開。
●管弦楽組曲はもちろん小編成なんだけど、軽やかというよりはむしろ筆圧が強く、ゴツゴツとした手触り。一転して、シェーンベルクで特大編成かつ極彩色になるというコントラストが強烈。これもバッハといえばバッハなのか。白眉はクリスマス仕様のマニフィカトで、ヘンゲルブロック設立のバルタザール・ノイマン合唱団のクォリティが高い。少人数ながら巨大なNHKホールでも不足感を感じさせない。独唱も合唱団のメンバー。今回が初来日。第1ヴァイオリン、コンサートマスターのお隣に座っていたのは郷古廉さんでは。
●終演して渋谷方向に歩くと、人だかりができている。ちょうど17時から恒例となった「青の洞窟」が点灯するということで、その瞬間を待ち構えている人たちが大勢いた。17時ジャストにパッと青く光る。写真は撮り忘れたので、去年に撮ったものを上に置いてみた。たぶん、同じような感じ(投げやり)。

December 10, 2018

ジョナサン・ノット&東京交響楽団の「フィガロの結婚」

●7日はミューザ川崎でジョナサン・ノット&東京交響楽団の「フィガロの結婚」初日。ひとことで言えば、モーツァルトにしてもここまで天才性を全開にさせた作品はほかにないと改めて感じ入る上演だった。コンサート形式とはいえ、完全に演技が入り、小編成のオーケストラが乗る同じ舞台スペースを駆使して、ほとんど舞台上演と変わらないストーリー再現度あり。演出監修にアラステア・ミルズ(バルトロ/アントニオ役でもある)。ノットは今回もレチタティーヴォでハンマーフリューゲルを弾く。オーケストラはホルン、トランペット、ティンパニがバロック・スタイル。東響はやはりモーツァルトを弾くとうまい。テンポは全体にきびきびとして速く、ときには意図してアンサンブルの安定を拒むかのよう。この作品にはしばしば陶酔的な瞬間が訪れるが、そこで立ち止まって音楽の美しさに耽るよりも、音楽を前に進めることと、場面場面の性格を伝えることを優先したようなテンポやダイナミクスの設定を感じる。
●歌手陣は大変に充実している。フィガロにマルクス・ヴェルバ、スザンナにリディア・トイシャー、アルマヴィーヴァ伯爵にアシュリー・リッチズ、伯爵夫人にミア・パーション、ケルビーノにジュルジータ・アダモナイト、マルチェリーナにジェニファー・ラーモア、バルバリーナにローラ・インコ、バジリオ/ドン・クルツィオにアンジェロ・ポラック。みんな歌えて演技もできて、脇役も含めてカッコよくておしゃれ。自分のなかではモーツァルトのオペラとは基本的にカッコいい歌手が歌うものになっており(レポレッロやパパゲーノであっても)、そうでないと違和感を覚えるようになりつつある。かつてのスター、ジェニファー・ラーモアがスザンナにババア呼ばわれりされるマルチェリーナ役で登場するのが感慨深い。
●年増女が若い男と結婚しようと企んだが、その男は実の息子だった。そんなふざけた話に、なぜこんなに胸がいっぱいになるのか。毎回思うのだが、このオペラの台本は第1幕までは完璧で、領主の初夜権なる設定を巧みに生かして「これからどうなるのか?」とぐいぐいと話を引っ張るが、途中から策略と言い訳の連続になると、話がグダグダになって「は? なんだそのヘンな作戦。もう勝手にやってろ」とどうでもよくなる。それなのに、泣ける! モーツァルトの音楽はもちろん場面場面の情景に添ったものだとは思う。思うんだけど……ときどき作曲家は物語に倦んで、音楽が話を置いてきぼりにして高みに昇ってしまうかのように感じる。モーツァルトは台本の枠に収まりきらない音楽を書いている。
●台本はグダグダだけど、テーマは鋭い。途中のセリフに「女はみんなこうしたもの」と出てくるが、この話が描いているのは「男はみんなこうしたもの」。アルマヴィーヴァ伯爵は明日のフィガロ。なにせ伯爵の前日譚は「セビリアの理髪師」だ。そして伯爵という権力者の傲慢さ、愚かしさは容赦なく描かれる。よくこれで上演許可が下りたもの。「コジ・ファン・トゥッテ」もそうだけど、形式上はハッピーエンドであっても、本質的にはなにも幸福な着地点にたどり着いていない。今回、第4幕でカットされることの多いマルチェリーナのアリア「牡山羊と牝山羊は」とバジリオのロバの皮のアリアも歌われた。なくてもストーリー進行に支障はないが、どちらもテキスト上はとても大切なことを歌っている。世のたいていの人は、フィガロの奇抜な策略ともアルマヴィーヴァの権力とも無縁だが、バジリオの処世術には覚えがあるはず。
●終演後の客席は大喝采。オーケストラが退出しても拍手が止まず、歌手陣とともにノットが登場して、スタンディングオベーションに。舞台上にも客席にも興奮と熱気が渦巻いて、なんともいえない雰囲気になった。

December 7, 2018

レコード・アカデミー賞 2018

レコード・アカデミー賞 2018年度(音楽之友社主催)が発表された。今年の大賞はテオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナによるマーラーの交響曲第6番「悲劇的」(ソニー)。あれれ、昨年もクルレンツィスじゃなかったっけ? と思って確かめてみたら、やはりクルレンツィス指揮ムジカエテルナでチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」だったんである。クルレンツィス連覇。西欧の常設メジャー・オーケストラではなくムジカエテルナのような楽団が、2年連続して一年を代表する録音に選ばれているのは興味深い。
●あと、クルレンツィスが指揮した「交響曲第6番」という点でも2年連続になったわけだ。となれば、2019年はクルレンツィスのベートーヴェンの交響曲第6番「田園」あたりが出て、毎年交響曲第6番が受賞するみたいな流れができたら楽しい。あるいは「悲愴」「悲劇的」と来たので、流れ的には次はブラームスの「悲劇的序曲」とか来るんじゃないか(なわけない)。
●これに続く、大賞銀賞はイザベル・ファウスト、ジャン=ギアン・ケラス、アレクサンドル・メルニコフによるドビュッシー「最後の3つのソナタ集」(ハルモニア・ムンディ・フランス)。大賞銅賞はラトル指揮LSO、マグダレーナ・コジェナー、クリスティアン・ゲルハーヘル他によるドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」(LSOライブ)。没後100年のドビュッシー・イヤーの収穫。
●ほかにも部門賞がたくさんあるが、とりあえず上記3タイトルをSpotifyのプレイリストに入れておいた。有料会員推奨。もっとも、こういうのって聴くには便利だけど、メタデータ(書誌情報的なもの)が常に不足気味なのが惜しいんだけど。

December 6, 2018

2019年 音楽家の記念年

●恒例、来年に記念の年を迎える音楽家を調べてみた。例によって100年単位で区切りを迎える主だった人を挙げている。50年区切り? そんなのぜんぜん区切り感がないから。潔く100年区切り推奨。
オッフェンバック●2018年はバーンスタインとドビュッシーという超大物があったが、2019年は同年生まれのオッフェンバックとスッペがいて「オペレッタ・イヤー」になりそう。あとはクララ・シューマンとレオポルト・モーツァルトという音楽史の名脇役がいる。ある意味でもっとも作品(というか著作)が広まっているのはハノンだが、じゃあそれでなにかやれるかと言っても……。
●ざっと調べただけなので、まちがいがあったらご教示ください。

[生誕100年]
ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(作曲家)1919-2006
渡邉曉雄(指揮者)1919-1990
ペーター・マーク(指揮者)1919-2001
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン奏者)1919-1949
セヴェリーノ・ガッゼローニ(フルート奏者)1919-1992
リーザ・デラ・カーザ (歌手)1919-2012
エルンスト・ヘフリガー(歌手)1919-2007
イルムガルト・ゼーフリート(歌手)1919-1988
ヴォルフガング・ワーグナー(演出家)1919-2010

[没後100年]
ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(作曲家)1857ー1919

[生誕200年]
ジャック・オッフェンバック(作曲家)1819-1880
クララ・シューマン(作曲家)1819-1896
フランツ・スッペ (作曲家)1819-1895
シャルル=ルイ・ハノン(教則本著者、作曲家)1819-1900

[没後200年]
ジャン=ルイ・デュポール(チェロ奏者、作曲家)1749-1819

[生誕300年]
レオポルト・モーツァルト(作曲家、ヴァイオリン奏者、天才の父親)1719-1787

[創業300年]
ブライトコプフ・ウント・ヘルテル(楽譜出版社)1719-

December 5, 2018

日本コロムビアの新レーベル Opus One 始動発表会

Opus One レーベル始動発表会
●30日、南麻布セントレホールで日本コロムビアの新レーベル Opus One 始動発表会が開かれた。オーパスワン、すなわち作品1。20代の有望な若いアーティストたちを、コンクール歴や活動実績にとらわれずに制作ディレクター陣が見出して、世に送り出そうという趣旨のレーベルで、2019年は5人の奏者がこのレーベルからデビューする。写真左よりギターの秋田勇魚(いさな)さん、ヴァイオリンの石上真由子さん、ピアノの古海行子さん、チェロの笹沼樹さん。会見の場ではそれぞれ少しずつ演奏したうえで、意気込みを語ってくれた。あともう一人、ウィーン留学中で参加できなかったソプラノの鈴木玲奈さんはビデオメッセージで登場。
●いきなり5人もの新人アーティストが続々とあらわれたので、なんだかオーディションみたいな気分になってしまうのだが、別にこちら側が札を上げたりはしないんである。こういったものは最後に登場する人がいちばん印象に残るもので、チェロの笹沼樹さんの朗々として雄弁なソロが光っていた。実際のところ、みなさん20代とは言ってもそれぞれにコンクール歴や演奏歴などしっかりとしたバックボーンを持った方がそろっており、あらゆる可能性に満ちている。
●ひとつ今回のOpus Oneレーベルで特徴的なのは、各アルバムに1曲は邦人作品を含めるというポリシー。幸田延のヴァイオリン・ソナタ ニ短調、大澤壽人「てまりうたロンド」、間宮芳生のチェロとピアノのための六つの日本民謡より「ちらん節」、なかにしあかね(星野富弘作詞)「今日もひとつ」、加藤昌則の「5つの失われし手紙」より「スコットランドの夕暮れの手紙」といった曲が収録されている。

December 4, 2018

2018年のJリーグの残留&昇格争い、まとめ

サッカー場●異常なほどドラマティックな展開が続いた2018年のJリーグの残留&昇格争い。J1は長崎と柏の降格は決まったが、最終節にもなって入れ替え戦(J1参入プレーオフ)行きの残り一枠にマリノス、湘南、鳥栖、名古屋、磐田が可能性を残すという壮絶なバトルになった。この内、名古屋と湘南は直接対決で、途中まで湘南が2点をリードして名古屋は万事休すかと思われたが、2点を追いついてドロー。勝点41で並んだが、得失点差では名古屋が下。鳥栖は鹿島相手にスコアレスドローでやはり勝点41に踏みとどまり、得失点差でセーフ。マリノスはセレッソ大阪に敗れてこちらも勝点41で並んだが、得失点差のリードでセーフ。そして磐田は優勝をすでに決めている川崎が相手。後半49分まで1対1の同点でそのままなら勝点42で余裕の12位フィニッシュだったはずが、試合終了直前にオウンゴールで失点してしまい、勝点41止まり。得失点差で名古屋を下回ったため16位で入れ替え戦に回ることになった。このオウンゴールひとつで名古屋は救われたわけで、風間監督は古巣の川崎からアシストをもらったことになる。12位のマリノスから16位の磐田まで5チームすべてが勝点41で並ぶという接戦で、蟻地獄でもがくかのような苦しい戦い。
●で、J2から昇格するチームだが、優勝の松本山雅と2位の大分は自動昇格。大分はかつてJ1でナビスコ杯優勝のタイトルまで取りながらJ2、J3まで落ちて、それからJ2、J1とまた復活したことになる。J3からJ1まで引き上げたのは片野坂知宏監督。名将なのか。昇格プレーオフでは、4位の町田にJ1ライセンスがないため、3位横浜FC、5位大宮、6位東京ヴェルディとで変則プレイオフを戦い(引分けなら上位チームが勝ち抜ける一発勝負)、いちばん不利なはずの6位のヴェルディが大宮と横浜FCに連勝して、磐田との挑戦権を得た。このヴェルディ対横浜FC戦がまた強烈で、後半51分まで同点で横浜FC勝ち抜けの状態だったのが、最後のコーナーキックで前線まで上がったヴェルディのGK上福元がドンピシャのタイミングでヘディングシュートを放ち、キーパーがはじいたボールをドウグラス・ヴィエイラが押し込んだという劇的ゴール。上福元のヘディングがうますぎて笑う。J1を賭けた磐田とヴェルディの戦いは12/8(土)14:00から。
●J3は優勝のFC琉球と2位の鹿児島がそれぞれ初のJ2昇格。琉球なんて少し前までJFLにいたのに今やJ2とは……。ということはJ2のチームはすべて沖縄遠征がシーズン中にあるわけだ。というか、FC琉球はアウェイ全試合を本土遠征しなきゃいけないんだから、大変なもの。
●J3の下、JFLではHonda FCがぶっちぎりの優勝を果たしたのだが、彼らは今日珍しい実業団のアマチュアチームであり、Jリーグ入りを目指していない(JFLでは通称「門番」と呼ばれている。会社員という安定した身分が強さの秘密か)。そして2位のFC大阪(大阪の第3勢力がここに)はJ3ライセンスをまだ取得していないので昇格できず。で、3位のヴァンラーレ八戸がJ3に昇格することになった。岡田武史オーナーのFC今治は5位と健闘したものの昇格ならず。以前、岡田オーナーは「JFLは1シーズンで通過したい」と豪語していたが、結局3シーズン目を迎えることになる。うん、JFLって、手強いっすよね、かなり。フフ。

December 3, 2018

アンドレアス・オッテンザマー with 郷古廉&ホセ・ガヤルド

●1日はトッパンホールでクラリネットのアンドレアス・オッテンザマー、ヴァイオリンの郷古廉、ピアノのホセ・ガヤルドの室内楽。軸となるのはオッテンザマーだが、トリオあり、デュオありで実に多彩なプログラム。前半はドビュッシーのクラリネットのための第1狂詩曲、ヴァイオリン・ソナタ、プーランクの「城への招待」、後半はバルトークのルーマニア民族舞曲、ブラームスの6つの小品より間奏曲op118-2(クラリネット+ピアノ版)、ブラームスの5つの歌曲op105より「歌のしらべのように」(クラリネット+ピアノ版)、レオ・ヴェイネルの2つの楽章、バルトークの「コントラスツ」。3人が全員で演奏するのはプーランクとバルトーク「コントラスツ」の2曲。オッテンザマーのクラリネットは今回も天衣無縫、のびやかで華麗(しかもイケメン。というタグがこの人にはもれなく付いてくる)。郷古廉のヴァイオリンは芯の強い美音で、集中度が高く、熱気のこもったドビュッシーのヴァイオリン・ソナタがとりわけ聴きもの。
●ドビュッシーの第1狂詩曲、この曲は「第2」がないのに「第1」と呼ばれるヘンな曲。これは旧作「海」へのセルフパロディというか、サブセット版みたいな曲だと思う。ピアノとクラリネットだけど、波や風、光を表現している、たぶん。パリ音楽院卒業試験曲。プーランクの「城への招待」、この編成ではなかなか聴けない曲のはずだが、聞き覚えがある。いつ聴いたんだろう? これはユーモラスというか、「すべるとわかってるギャグを堂々とやる」的なベタなノリの曲であるという理解。ブラームスのop118-2は、本来ピアノだけで完結されている作品を、ピアノとクラリネットで演奏するのが不思議な感じ。もっとも楽しめたのは最後のバルトーク「コントラスツ」。終楽章はヴァイオリンの持ち替え(一台はスコルダトゥーラされている)とクラリネットの持ち替えが出てくるという趣向になっている。そうだったんだ。アンコールはショスタコーヴィチの5つの小品より第1曲のプレリュードと第4曲のワルツを3人で。オッテンザマーが楽譜を忘れて(?)登場してしまい、「少し待ってください」と日本語で述べてからいったん袖に引っ込んで、タブレット端末を持って登場して舞台上で懸命に検索するという一幕も。場が和んだ。

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