zombieの最近のブログ記事

February 3, 2012

ゾンビと私 その22 NHK「ヒューマン なぜ人間になれたのか」

●前回、「ウォーキング・デッド」について書いた。その後しばらくして、たまたまNHKの「ヒューマン なぜ人間になれたのか」というドキュメンタリーを見た。これは鋭いっすよ。どうして地球上にこれだけヒト、つまりホモ・サピエンスが広がったかという話。それなりに賢くて強いライバルはたくさんいたのに。
NHK「ヒューマン なぜ人間になれたのか」●興味深かったのは、他の霊長類との比較。ゴリラの生殖間隔は4年、チンパンジーは5年、オラウータンにいたっては8年だという。この間、母親はずっと子にお乳を与えている。これに対してヒトは一年だ。繁殖のスピードがぜんぜん違うんである。この旺盛な繁殖力により、ヒトは世界に広がった。オラウータンはヒトをわれわれがネズミを見るかのような目で見ていたのかもしれない。ネズミ算ならぬヒト算。人類増えすぎ。アフリカの大地だけじゃ到底ヒトをまかないきれず、ヒトはすさまじい勢いで地球上に広がった。
●さて、そしてヒトの多くはゾンビになってしまったわけだ。「ウォーキング・デッド」の先々のシーズンの展開がこれである程度、予想できないだろうか。つまり、ゾンビをヒトに戻すような都合のいいワクチンなど開発されないとして(そのはずだ)、このまま多数のゾンビvs少数のヒトの戦いが続いた場合、勝者はどちらか。
●もちろん、ヒトなのだ! なぜならゾンビは繁殖できないから。ヒトは繁殖する。ヒトのうち、かなりの程度はゾンビになってしまうだろう。しかしヒトがゾンビを倒した場合、確実にその数だけゾンビは減る。ヒトのゾンビ化率<ゾンビ撃退率+繁殖率を考えて、右辺が大きくなるように保てさえすれば、いずれ地球はふたたび人類がゾンビを圧倒するようになる。どれくらいの時間がかかるかはなんともいえないが、あれだけ地球がゾンビに覆われても、それでもゾンビは不利だ。
●ただし、ヒト側も現時点で手にしているリソース、ガソリンであるとかクルマ、ミネラルウォーターや加工食品、現代文明が作り出した道具類等々をいったんは失ってしまうだろう。文明を維持するには、あまりにヒトは減りすぎた。最悪、石器時代からやり直しの可能性すらありえる。そうなった場合、今度はヒトの敵はゾンビ以上に大型の肉食動物(本来の捕食者たちだ)になるという展開はありうる。「ウォーキング・デッド」シーズン256くらいまで続くと、案外絵面は「はじめ人間ギャートルズ」みたいな感じになってて、主人公の子孫たちがマンモスを追いかけているのかもしれない。え、ゾンビ?そういやそんなヤツ昔いたっけなあ、みたいな。

January 31, 2012

ゾンビと私 その21 「ウォーキング・デッド」

ウォーキング・デッド●ついに見た、ウワサの「ウォーキング・デッド」を。先日ご紹介したhulu(フールー) で2シーズン13話。はっきり言って、これは傑作。現在のワタシたちが直面しているゾンビ禍を、これほど正面から見すえた作品はかつてなかった。必見すぎる。
●え、「ウォーキング・デッド」なんて、知らないよ。そんなあなたのために言っておくと、これは映画ではなくテレビシリーズである。「ショーシャンクの空に」と「グリーンマイル」の監督であるフランク・ダラボンによる、サバイバル・ドラマ。全米で大ヒット、したのかな? まあ、そんなことはどうでもいい。大切なのは、この現実的なゾンビ設定と、人々の暮らしのあり方だ。
●ここではヤツらはゾンビではなく「ウォーカー」と呼ばれるのだが、実質的に正統派ゾンビである。まず、走らない。ゾンビは走っちゃいけません。動きもややとろい。俊敏なゾンビとか、ゾンビじゃないし。すなわち古典派。もちろん、人をめがけて喰らいつこうと襲ってくる。肉食欲望が本能のすべてで、人のみならず動物も喰う。頭を撃つなり破壊するなりしないと死なない(いや死んでいるんだった。停止しない)。
●物語はすでにヤツらに襲われ、荒廃したアメリカから始まる。しかし、これまでに当連載「ゾンビと私」でも述べてきたように、人はいきなり絶滅したりはしない。数少ないながら生き延びる人たちがいる。彼らは集団を作る。都市にもいる。田舎にもいる。都市部は人口密度が高いだけに危険であり、逆に農村部であればゾンビ密度も低い。先行研究を正しく活用した設定により、ヤツらだらけになったこの地上で人がどうやって生きていくかを描く。
連載第9回でも述べたように、Zday以後、ゾンビと並んで脅威となるのは、実は人間である。そもそもなぜゾンビ禍に襲われたかといえば、人間が共生能力を失ったからであるのだから。そのときがやってきても、やはり私たちは変わらない。最初は軍隊がヤツらと戦ってくれるかもしれない。ヤツらの死体がうず高く積まれるだろう。それをどうするか。燃やさねばいけない。除ゾンが必要だ。しかしではヤツらの焼却をどこでするかとなるとどの自治体も受け入れようとしない。住民投票をするかもしれない。Noの答えが出る。人々は一方で政府は除ゾンせよと叫び、一方でわが自治体で受け入れはできないと拒む。こうして賞味期限間近だった民主主義は終焉を迎える。悪辣な業者がZカウンターを売り出す。ゾンビに襲われにくい体質を作るための食事法を伝授し始める者も出てくるかもしれない。味噌が効きますよ、化学調味料は摂取しないでください、ヤツらをおびき寄せないために。しかしヤツらはお構いなしに噛み付く。ガブツ、ガブッ! あなたの家の外壁をヤツらが唸り声を上げながら、力いっぱい叩き出した。そんなときに、手近の武器を持って立ち上がることもなく、こう考える。政府はなにをしているのか、あんなのが国の指導者ではどうにもならない、これはゾン災ではなく人災だ、マスコミはなにをしている? 食糧を確保しなければ、アマゾンに発注しよう、クロネコヤマトなら来てくれるはず……。ガブッ。
●おっと、いけない、「ウォーキング・デッド」であった。「ウォーキング・デッド」はこの手のものとしては珍しく、シーズン1よりシーズン2のほうがさらに秀逸である。このゾンビで埋め尽くされた世界にあって、人間にとって人間は脅威であり続ける。一方、人間は共同体を作ることでしか生存できない。この二律背反の中で人はどう生きるのか。利己的であることとは、共同体の利益を考えることとはなにか。ときに人はその邪悪さをあらわにする。そこでふと思うのは、人間に比べゾンビはむしろ純朴である。ヤツらは咬噛欲求だけで生きている(いや、死んでいる)。恐怖も感じず、のびのびと死んでいる。明らかに邪悪なのはわれわれである。それを受け入れた上で、なお、私たちは希望を見出さなければならない。「ウォーキング・デッド」はその希望の実体とはなにかを微かに示唆している点で、他の同種作品群とは一線を画している。

December 26, 2011

サンタvsゾンビ、そして全世界ゾンビ地図

●メリークリスマス。みなさんのもとにサンタクロースはやってきたのであろうか。やってきたかもしれない。あるいは来なかったかもしれない。サンタにもいろんな事情がある。大人にいろんな事情があるように……。
●「サンタvsゾンビ」などあちこちの記事で紹介されているが、オックスフォード大学のインターネット研究所が全米各地でサンタとゾンビのどちらがよりGoogle検索されているかについて調査している。リンク先のマップを見ればわかるように、さすがクリスマス・シーズン、ほとんどの地域ではサンタがゾンビに勝利している。だが、ゾンビが勝利している地域もある。サンフランシスコのベイエリアとかシアトルとかヒューストンがレッドゾーンになっている。これらの地域ではサンタどころではないのだ。人々は答えを求めて検索窓に Zombies と打ち込んでいる真っ最中だ。彼らはなにを知りたいのかって? 言わせるなよ……。
●さて、上記は全米での「サンタvsゾンビ」についての対決結果であるが、もっと直接的な調査結果を知りたくないだろうか。すなわち「全世界におけるゾンビ検索度」だ。さすが、オックスフォード大学である、その辺の調査結果もきちんと発表してくれている。以下がその感染地図だ。
Mapping zombies

●現在のゾンビ禍が明快に可視化されている。米国の大都市部において事態は深刻であり、欧州も一部局所的に危機的状況にある。そして日本。日本にもたしかに関東と関西において第2レベルの汚染が観察されている。しかし欧米の都市圏に比べれば、逼迫した状況とは言えないだろう。また、つい赤い円の大きさばかりを注目してしまうが、全世界で見ればほとんどの地域においてゾンビは不検出である。調査結果を冷静に受け止め、デマに惑わされることなく落ち着いて行動したい。現状、どこが安全かについて早まった結論を出すつもりはないが、人口密度とゾンビ度には相関関係があるように見える。念のため、人ごみは避けるのがいいかもしれない。人ごみに出かけた場合はこまめな手洗いを推奨したい。うがいもいいだろう。マスクの有効性については疑問を感じる。

September 6, 2011

ゾンビと私 その20 「ゾンビの作法 もしもゾンビになったら」

ゾンビの作法 もしもゾンビになったら●さて。ゾンビ新刊が出るというのだが、これはどうしたものだろうか。「ゾンビの作法 もしもゾンビになったら」(ジョン・オースティン著/太田出版)。これまで不定期終末連載「ゾンビと私」では、「いかにこのゾンビ化する社会のなかで、生き残るか」を探求してきたわけであるが、この本は最初の立ち位置からして違う。「本邦初となる、ゾンビのための、ゾンビとして生きていくための指南書」なんである。つまり、「人間の襲い方」とか「仲間の増やし方」とか「ゾンビ自殺のやり方」(あるの?)とか、そんなゾンビ・ライフの送り方について書かれているという。
●そこまであっさりと諦めてしまっていいんだろうか。人間性を捨て去れるものだろうか。と疑問を感じるとともに、現実問題としては「郷に入れば郷に従え」、どうせゾンビになるのが避けられないなら、せめてゾンビとして少しでも快適に生きたい(いや、死にたい)という願望が生まれても不思議ではない。そうだよな、「仲間の増やし方」とか、大切だよな。人間として生きてたって、仲間を増やすのは大変だ。どこからが仲間でどこからが仲間じゃないのかよくわからなかったりするし、なんかメンドくさいから仲間なんかいらないやと思っても、仲間がいないとなんにもできない。だからゾンビになったらなったで、やっぱり仲間が欲しくなるかもしんない。「さまよう鎧」みたいに仲間を呼んだだけで隣にホイミスライムが現れるとは限らない。ゾンビなのに仲間がいないと、その辺の銃を持ったヒトに簡単に頭をぶち抜かれるかもしれない。きっとゾンビだって孤独は辛い。大勢の仲間たちといっしょに、生き生きとした(いや、死に死にとした)ゾンビ生活を送りたい。この本はそんな人(ていうか元ヒト)のためにあるのかな、と思いつつ、果たしてこれを読んでしまって平気なのか、やはりヒトはヒトとして生きることだけを考えるべきなのではないかと激しく葛藤する。

August 22, 2011

ゾンビと私 その19 ジョナサン・ケント演出「ドン・ジョヴァンニ」

●日曜の午前中から新宿バルト9へ。ソニーLiveSpireのワールドクラシック@シネマ2011「ドン・ジョヴァンニ」。午前11時からの1回のみ上映で8/20~8/26の一週間(東京以外も全国各地それぞれのスケジュールで上映。東京より先に終わったところもあれば、後のところもある)。2010年のグラインドボーン音楽祭から、ジョナサン・ケント演出、ユロフスキ指揮エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団(すばらしい)、ジェラルド・フィンリー (ドン・ジョヴァンニ)、ルカ・ピサローニ(レポレッロ)他。
●よく練れた演出で、おもしろかった。冒頭の場面、ドン・ジョヴァンニはいきなり悪辣。騎士長と決闘なんかしない。相手が油断してる隙にさっさとでかい石を拾って、後ろから騎士長の後頭部にガツン、さらにガツッ!、とどめにガツッ!と一方的に殺してしまう。他人への共感能力を徹底的に欠いたドン・ジョヴァンニ像をさっくりと宣言。嫌な感じのリアリズムで舞台を引き締めてくれた。
●レポレッロはポラロイドカメラで主人のお相手をパシャって撮ってカタログにしてる。そうだよなあ、カタログには写真がなきゃ(笑)。ポラロイドカメラだから時代は少し昔なのだ。今なら「♪イタリアでは640人~」と歌いながら、iPadの画面を指でひゅんひゅんしながら獲物を自慢するところか。
●ドンナ・エルヴィーラっているじゃないすか。この役ってコミカルというか、イジメたくなる役柄だと思うんすよ、基本的に。すごくダメな人なのに、正義を振り回すという設定に、作者のイジワルさを感じる(というかドンナ・アンナに対してもツェルリーナに対してもイジワルさは感じられるけど)。1幕の終わりでドンナ・エルヴィーラとドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオの3人が仮面をつけてドン・ジョヴァンニの屋敷を訪れる場面で、ドンナ・エルヴィーラは顔にピエロのメイクをしている(笑)。そうか、女ピエロだよなー、ドンナ・エルヴィーラって。
●ドン・オッターヴィオの役どころは愚鈍。「ドン・ジョヴァンニ」ってあらゆる脇役に対して作者がイジワルじゃないですか。そこが好きとも嫌いともいえる。
●おっと話がそれた。この演出でいちばんいいなと思ったのが死んだ後の騎士長の扱い。平凡な演出の「ドン・ジョヴァンニ」ではこれが見るに耐えない。石像がしゃべるとか、晩餐にやってくるなんてのでは、本来シリアスでなければならない場面が(少なくとも音楽はそうなってる)、どうしようもなくバカバカしい場面になりがち。で、この演出では石像は出てこない。レポレッロとドン・ジョヴァンニが墓場で出会うのは騎士長の石像ではなく死体そのもの。墓から出てきた死体が動く。つまり、これはゾンビだ。そうは明示されていないが、どう見てもゾンビ。ドン・ジョヴァンニはゾンビ騎士長を晩餐に招いたんである。これ、意外と歌詞もそのままで通るっぽい。石像でもゾンビでも触ると冷たいし。
●で、地獄落ちの場面だ。やってくるのは石像ではなく、生きている死者だ。その登場の仕方だけが無理やりすぎて思わず声をあげて笑ってしまったが(どんなかは内緒)、ドン・ジョヴァンニは騎士長ゾンビに襲われて血だらけになって地獄に落ちる。落ちても死体はちゃんと残ってる(描かれていないけど、後日談としてはドン・ジョヴァンニも甦り、次々と女たちを真の意味で襲い、死後バージョンのカタログが作られることになるだろう。また、騎士長は確かに食事にやってきたのだともいえる。人間の食い物は食わないけど、人間は食べちゃいます~的な)。
●なるほど、これはいいね。石像より生きている死体のほうが、ずっと話が通るし、今日的で、なによりモーツァルトの音楽が救われる。ジョナサン・ケント、鋭いな。と思ったら、デイヴィッド・マクヴィカーも騎士長ゾンビの演出をやってるらしい(未見)。そうだなあ、これたどり着く結論としてそうなるしかないってところもあるだろうし、もうこれからは騎士長=ゾンビを標準にしてもいいくらいなんじゃないか。少なくとも私たちの社会にゾンビ禍が訪れている間は、アイディアを共有していいってことにしてはどうか。頼むよ(誰に?)。
●昨日8月21日は本サイトCLASSICAの設立16周年なのでした。祝。

October 12, 2010

ゾンビと私 その18 御岳山ハイキング

●長かった夏が終わり、ようやく秋晴れの一日が。御岳山にハイキングに行って来た。
御岳山からの眺望
●ふー。いい眺めだこと。あっ、すいません、実はケーブルカー使って、一気に登っちゃいました。
●なぜ山へ行くのか。この不定期終末連載「ゾンビと私」をご愛読いただいている皆様には今さら説明するまでもないことであるが、念のため簡単に説明するとこういうことだ。地上がゾンビであふれかえるZdayに備え、私たちは人口過疎な場所を避難所として見つけ出す必要がある。東京のような高密度地域はあっという間に感染は広がる。感染者がお隣にガブッ、お隣がそのお隣にガブッ。都市秒殺。しかし山なら人口密度が薄い上に、ゾンビは理由もなく山を登攀しないであろう。という仮説に基づき、この数年間にわたり毎秋、東京近郊低山をリサーチしているわけだ。
御岳山の記念写真はこちらへ●はい、チーズ。パシャッ。うーん、御岳山は昭和の香りに満ちてるなあ……ていうか、ここ、山頂が超賑わってる! 地方都市の繁華街より賑わってるんじゃないかというくらい人多すぎ、みやげ物屋だらけ。しまった……。近年足を運んでいる奥武蔵方面の怖いくらいの寂しさに比べ、御岳山はなんと繁盛しているのであろうか。これ、場所がメジャーすぎてゾンビ・ハイキングの選択肢として失敗してないか!?

御岳山で神に祈ろう!
●山頂には関東有数の霊場、武蔵御嶽神社がある。そう、来るZdayにできることといったら、ここで神に祈るしか……しかしこんなに人が多いんじゃここに来るまでに自分もゾンビになってるぞ!
●ちなみに、この山にはコジャレた雰囲気の女子がいっぱいいました。山ガールだ。彼女たちもZが来たらみんな山ゾン……いやいや、ステキですねー、山ガール。

御岳山にも鎖場が
●おっとこんなとこに鎖が! この大岩を登れるようになっているようだ。なるほど、これは対ゾンビ的には優れた地形かもしれない。ゾンビは鎖を登らないだろう。しかし、登ってどうする? 下にウジャウジャとゾンビ・ハイカーたちが待ち構える中で、大岩の上で袋小路に入るだけかもしれない。いずれにせよ、鎖で登るような怖そうなところに近寄るつもりはないのでスルーして先へ。

御岳山ロックガーデン
●そしてやってきたのが、ロックガーデンだ! なんという爽快さ。苔むす岩をぬって流れる清流のせせらぎに耳を傾けていると、あまりの心地よさになにもかも忘れてしまいそうになる、この地上にゾンビ禍が訪れようとしていることまで……。

御岳山でキノコ狩り♪
●帰路はケーブルカーには乗らず、大塚山、丹三郎尾根、古里駅ルートを歩いた。写真は途中で見かけた2種のキノコである。左は白くて大ぶりで食欲をそそる。右は鮮やかな赤が魅惑的である。山へ逃げた場合、食糧の確保は重要な問題になる。したがって、どのような場所に何が生息しているかという植生を観察しておくことは大切である、mgmg、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、とりわけ容易に採集できるキノコ類なんてサイコーだろ、うひょひょひょひょ、くっくっくっくっくっ、ふひゃひゃひゃひゃ……。

御岳山登山口
●はっ。下山したのだった。古里駅に通じる登山口には上記のような注意書きがある。獣害対策用に金網の開き戸があり、最上部には電流が流れている。これはいざというときには有効であろうか? いや、ヤツらを留めるにはあまりにも脆弱な金網であり、電流など猿相手ならともかく連中にはいかなる痛痒も与えないであろう。ヤツらは痛みを感じない。恐怖も感じない。ただひたすら「喰いたい」という本能のみを持つのである。今回確認した範囲では、御岳山の安全度は他の低山に比べかなり劣ると断定せざるを得ない。むしろここは純然たるハイキングに最適な山である。今後、さらなる調査に邁進したい。

October 5, 2010

ゾンビと私 その17 「ワールド・ウォー・ゼット」(マックス・ブルックス著)

ワールド・ウォー・ゼット●ゾンビたちが跋扈する現代日本にあって必読の書ともいえる小説が刊行された。World War Z、もちろんZはゾンビのZ。「ワールド・ウォー・ゼット」(マックス・ブルックス著/文藝春秋)。「ふーん、ゾンビ小説ねえ、でも文字で読んだってゾンビの怖さなんて伝わらないんじゃないの?」と訝しむあなた。違うんですよ、これは。スティーヴン・キングがその並外れた筆力によって「呪われた街」でドラキュラという古典的すぎる題材に新たな生命を与えた、というタイプの話ではない。「ワールド・ウォー・ゼット」では小説的完成度なんてものは脇に置かれて、現実としてのゾンビに立ち向かっている。すなわち、まさにゾンビがこの地球上を覆うというときにわれわれはどうすればいいのかという切実な問題意識から生み出された小説といえる。この点で、本作はあらゆるゾンビ映画ともゾンビ小説とも一線を画している。
●「ワールド・ウォー・ゼット」は、世界Z大戦後にまとめられた報告書という体裁を採る。ゾンビ大戦を終えた後、さまざまな生き残った証言者たちにインタヴューするという形だ。そう、人類はゾンビに打ち勝ったのだ。当初、地球規模でパニックが広がり、地上の多くがゾンビで埋め尽くされることになるが、人類はそこから反転攻勢に出て、ふたたび文明を取り戻した……という大きなストーリーが前提にある。アメリカで、ロシアで、中国で、日本で、なにが起きたのか。これはまさにゾンビ禍に対する予習だ。たとえば日本は国土が狭く、人口が多い。そのためいったん感染が広がり始めると止めようがない。しかもゾンビ大戦以前の社会の安全性が高かったため市民の武装度が低く、ゾンビと戦うこともできず、結局は国土を見捨てて難民として海外に脱出せざるを得なくなったという。これでは第二の「日本沈没」ではないか。小松左京の先見性をこんなところで思い知らされようとは。
●著者のマックス・ブルックスは映画監督メル・ブルックスの息子なんだそうであるが、実はこのブログでは彼の著作をすでに一度ご紹介している。The Zombie Survival Guide: Complete Protection from the Living Dead (未訳)がそうだ。つまり、彼はまず「ゾンビから生き残るためにどうしたらいいか」というガイドブックを、あらゆるシチュエーションを熟慮して執筆し、続いてその成果を小説という形態に発展させたのだ。本書が実践的なサバイバル小説として、実用可能な水準に達しているのはそのためだ。ワタシたちは証言者の記録に耳を傾け、考えなければいけない。その日、どこを目指すのか。山か、森か、海か、都市か、あるいは北なのか。

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●ゾンビ関連記事まとめ:「ゾンビと私」特設ページ

February 10, 2010

ゾンビと私 その16 「高慢と偏見とゾンビ」を読んだ

高慢と偏見とゾンビ●ようやく読了、「高慢と偏見とゾンビ」(ジェイン・オースティン、セス・グレアム=スミス著/二見文庫)。いやー、なんと言ったらいいのか。おもしろかったっすよ。さすが「全米で誰も予想だにしない100万部を売上げた超話題作」(笑)。
●これ、ジェイン・オースティンの名著「高慢と偏見」を下敷きに(そう、思いっきり下敷きに)、ところどころゾンビが出てくるという小説なんである。8割方は「高慢と偏見」そのまんま。主要登場人物とその造形、ストーリー展開も同じ。ただ、ときどきゾンビ。設定上、18世紀末イギリスには謎の疫病が蔓延して、ゾンビ化していて、主人公エリザベスをはじめとするベネット家の五人姉妹は全員鍛えられた戦士、ダーシー様もきわめて高い戦闘能力を有しており、ゾンビをぶった斬ってくれる、たまに。
●で、ワタシはマジメに堪能したんすよ。あー、ダーシー様の最初の印象ってこんな感じだったなー、とか、長姉のジェインって奥ゆかしくていいよねー、とか、そういえばいたなあ、ウィカムとかいう軽薄な男が!とか。……ていうか、それ要するに「高慢と偏見」再読を楽しんでるだけなんでは。
●そう、実を言えばゾンビ成分は案外薄い(だから本国ではゾンビ3割増量のデラックス愛蔵版も刊行されているんだとか)。ただ、そこのところにワタシはリアリティを感じる。ゾンビうじゃうじゃだったら、人は生き残れない。これ、田舎の話なんすよ。今後世界がゾンビで埋め尽くされた後、これまでにも当連載で言っているように、生き残った人々は都市部を捨てて人口密度の低い農村地帯で暮らす可能性が高い。そうなったとしても、人はゾンビと戦いながらも日々の暮らしの中でロマンスを夢見ることを止めたりはしない。世界で戦争が起きようと、革命が起きようと、半径20メートルの世界で起きるロマンスが色褪せることはない。ならばポスト・ゾンビ時代においても。これは古典の再演出とでもいうべき、予言的なロマンス小説なのだ。
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●ゾンビ関連記事を「ゾンビと私」特設ページにまとめることにした。読み逃した方はぜひ、もう読んだという方は再読を。このゾンビ時代を生き残るために。

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