2016年10月アーカイブ

October 31, 2016

トゥガン・ソヒエフ指揮N響の「新世界より」他

●27日はサントリーホールでトゥガン・ソヒエフ指揮N響。前半にベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(エリーザベト・レオンスカヤ)、後半にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。レオンスカヤは客席の喝采にこたえて、アンコールになんとベートーヴェン「テンペスト」の終楽章。まさかと思ったけど、この日のプログラムが比較的短めなので(定期二日目は生中継もないことだし)、それぐらい聴かせてくれる選曲もありなのか。ソヒエフの「新世界より」は独特。以前にも感じたけど、多くの演奏がスパッと歯切れよく演奏するところを、フレーズを大きくとらえてテヌート気味で歌わせる傾向があって、重心の低い大柄な音楽が生み出されていた。
●ところで「新世界より」といえば、第4楽章で1回だけ登場するシンバルがよく話題になるけど、あの「シャーン」は列車の連結音だっていう解釈が巷にはあるのだとか。そう言われてみると、第4楽章の冒頭は徐々にスピードアップして爆走する機関車としか思えなくなる(オネゲル「パシフィック231」みたいな)。なんとなく自分はずっとあのシンバルは「はい、ここから回想シーンね」みたいな合図で、そこからモヤがかかるみたいに感じていた。「新世界より」はどこまで鉄道的な解釈が可能なのだろうか。

October 28, 2016

サーバーを移転した、その顛末

●ふー。実はこの一週間くらいをかけて、当サイトのサーバーを移転した。デジタル引越しを完了して、すでにここは新サーバー。アドレス(URL)は変わらないので、ご覧になっている方々から見れば、なにひとつ変更はない。サーバー移転はこれで3回目で、前回はすんなりできたような記憶が残っているのだが、久々にやってみると冷や汗をかく瞬間もあったりして、案外プレッシャーになっていた。
●今回は同じホスティングサービス内でサービスプランが変わっただけなので、本来やることは単純。1. 旧サーバーにあるデータをごっそり新サーバーにコピーする。 2. サーバーが引っ越したよという通知を届けてDNSサーバーの情報を更新してもらう。これでおしまい。の、はずだったんだけど……。以下、詳しい方から見れば素人丸出しの話で恥ずかしいんだけど、備忘録も兼ねて記しておこう。
●まず1。FTPで大量のファイルをダウンロードすることになるのだが、さっそくここでつまづいた。FTPクライアントの問題なのか、一度に大量のファイルを落とそうとするとエラーになってしまう。ググったところ、暗号化周りの処理でもたつくらしいということで、一時的に暗号化オプションを外してみたらダウンロードできた。続いて新サーバーにこれをまるごとアップロード。この時点で、新旧ふたつのサーバーにそれぞれまったく同じCLASSICAというサイトができたわけだ。といってもclassicajapan.comというドメイン名に割り振られているのは旧サーバーなので、新サーバーへのアクセスはワタシ自身以外にゼロ。だれも知らないもうひとつのCLASSICAがひっそりと誕生(笑)。こちらの新サーバーへはIPアドレス(または仮のドメイン)でアクセスする。
●で、ここではたと困ったのが、新サーバー側でこのブログを作成するMovabletypeの動作確認をするにはどうしたらいいのか、という点。丸ごと同じものをコピーしたのだから、Movabletype側の各種設定ファイルなどにはサイトパスがclassicajapan.comで記録されている。そのままでは旧サーバーにあるCGIにアクセスしようとしてしまうので、もちろん動作しない。なのでこれを新サーバーのIPアドレスに書き換えて動作確認をすることにした。サーバーに置いてあるconfigファイルも対応が必要だよなーとか思い出して、必要と思われる個所を書き換えたのだが、これがなにかと神経を使う。つまり完全にclassicajapan.comという記述を新サーバーのIPアドレスに書き換えてしまうと、生成されるHTMLページ内のリンク先なんかもIPアドレスで出ちゃう。これを後からもとに戻さなきゃならないのは煩雑でイヤだなーと思い、ケースバイケースで綱渡り的に個別対応。微妙に心配だったが、でもなんとか動作確認はできた。
●で、次に手順2はドメインの変更申請。申請自体は簡単なんだけど、ホスティングサービス側でドメイン設定作業を完了し、なおかつDNSが浸透するまでの間、旧サーバーと新サーバーの両方を並行運用しなければならない。これが手間。ホスティングサービス側の作業完了時刻があらかじめわからないのでヤキモキしていたのだが、申請の翌々日、東京文化会館に出かけて「ナクソス島のアリアドネ」の開幕直前になって、設定が完了した旨のメールが届いた。すぐにはなにもできないので(個人サイトだから担当者はワタシしかいない)、終演後に帰宅してから、旧サーバーの子ドメインwww.classicajapan.comを削除し、続けて新サーバーに子ドメインwww.classicajapan.comを登録。これで、サーバーは移行できたはずなので、新サーバー側のMovabletypeの設定を戻してやらなければいけないのだが、そうはいってもここでDNS浸透待ちが発生する。インターネットの仕組上そうなってしまうのだが、変更作業が終わってもclassicajapan.comへのアクセスが一斉に新サーバーに向かうわけではない。利用者側の使うDNSによって、旧サーバーにたどり着く人もいれば、新サーバにたどり着く人もいる。DNSの浸透には最大3日ほどかかるということになっている(実際にはそんなにかからないのは前回も体験済みだが)。で、まあ一晩待てばいいだろうということで、その日は寝た。
●で、翌日、さてどうなっているかなと思い、メインPCからclassicajapan.comへアクセスしてみると、旧サーバーのほうにつながってしまう。むむ。別ルートで試してみようと思い、携帯端末から4G回線経由でアクセスすると、そちらは無事に新サーバーにつながった。さて、どうしようか。メインPCから新サーバー側のMovabletypeの設定を戻してブログを更新したいのだが、classicajapan.comが旧サーバーにつながってしまうのではエラーが出るばかり。これは新サーバーにつながるのを待つしかないんだっけ。いやいや、でももう一晩経ってるんだけど?
●で、ここからが割とトンチンカンな気もするのだが、まず自分のPCのネットワークの設定をいじってDNSサーバーを変更してみようと思いついた。TCP/IPのプロパティを開き、「DNSサーバーのアドレスを自動的に取得する」になっているのを、Google等の公開DNSサーバーに変更してみた。そっちだと新サーバーにつないでくれるんじゃないかなーと期待して。でもやっぱり旧サーバーにつながってしまう。えー、なんか変だなー。で、コマンドプロンプトを立ち上げてnslookupコマンドでclassicajapan.comのIPアドレスを引っ張ってみると、ちゃんと新サーバーのほうが出る。ここに至って、ようやくローカルマシン側にDNSの「キャッシュ」みたいなものが残ってるんじゃないかと気がついた。ブラウザが怪しいと思い、ChromeにあるDNSのキャッシュ(そんなのがあったんだ)をクリアしてみた。ところがそれでも旧サーバーにつながってしまう。うーん、うーん、どうしてなんだろう。ほかにもDNSのキャッシュってどっかにあるの? はっ。もしやWindowsにあるとか?? PCを再起動した。あっさり新サーバーにつながってくれた。ドテッーーー!
●そんなわけで、新サーバー側のMovabletypeで一時的にIPアドレスで指定したおいた設定を全部classicajapan.comに戻してやると、無事にブログが更新できるようになった。もしそこでエラーが出るとドツボにハマるところだったので、ちゃんと動いてくれて安堵。で、旧サーバーの並行運用を続けるべきかどうか一瞬迷ったのだが、やるとなると旧サーバー側の設定変更などがいろいろと面倒。新サーバーと旧サーバーのアクセス数を比較してみたところ、その時点ですでに5対1くらいで新サーバー側へのアクセス数が多くなっていたので、これはもう旧サーバーは放置でいいんじゃないかと思い、並行運用は止めることに。そのあとしばらく時間が経ってからもう一度確認したら、10対1くらいになっていたので、もう大丈夫だろう。昨日のエントリーからは新サーバー側だけで更新している。
●新サーバーは動作が軽快で吉。少なくとも今のところは。

October 27, 2016

ウィーン国立歌劇場2016日本公演 シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」

ウィーン国立歌劇場 シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」
●25日はウィーン国立歌劇場日本公演でリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」(東京文化会館)。演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ、指揮はマレク・ヤノフスキ。先日の記者会見で、ヤノフスキは長らくオペラのピットから遠ざかっている理由として「演出主導のオペラのあり方には耐えられなくなったので、もうピットには入らないと決めたから。しかし物事には例外がある」として、この演出ならば許容できるのだというニュアンスで語っていた。ステファン・グールドも言っていたように、「ノーマルで、音楽や人物像を壊すことがない」正攻法の舞台。もともと作品自体がメタオペラ(オペラについてのオペラ)という変化球なので、野心的な演出を要さずとも作品の現代性は約束されている。
●配役はプリマドンナ/アリアドネにグン=ブリット・バークミン、ツェルビネッタにダニエラ・ファリー、作曲家にステファニー・ハウツィール、テノール/バッカスにステファン・グールド。さすがにこの歌手陣は強力。オーケストラのサウンドもほれぼれするほどの美しさ。声がすばらしいだけではなく、容貌も役柄に合っているのがいい。いつも書いてるように「オペラは見たままに理解する」(=オペラの約束事を無条件に受け入れない)派にとっては、たとえばグールドの体格が立派であることがすごく説得力を生んでいる。だって彼の役柄はヘルデンテノールなんだから。「ヘルデンテノールがヘルデンテノールの役を歌っている」という意味で、この役は「オペラについてのオペラ」であるこの作品の肝ともいえる。
●で、写真のように舞台上には奥に客席が設置され、その手前で後半の劇中劇が演じられた。わたしたちは客席から舞台を見て、その舞台の奥にセットの客席があるという趣向(先日の記者会見では、記者たちがあの舞台上の客席に座り、手前に舞台奥に向けてひな壇が設置されていたのだ)。芸術作品の自己言及性というのはポストモダンのキーワードみたいなもので、たとえばどんな巧みなストーリテラーであっても、文学作品として小説を書こうと思ったら、波瀾万丈の物語だけでは作品を成立させきれず、どこかで「書くことについて書く」ことを避けられない。同じようにこのオペラは「オペラを書くことについて書いた」オペラであるわけだが、シュトラウスとホフマンスタールは今からちょうど100年前にこの舞台を実現していたのだから先駆性は疑いようがない。
●じゃあ、なぜ自己言及的でなければいけないのか。といえば、それはシリアスな事柄ほど、「それを書いている自分」を外側から見つめる自分という立ち位置を見せないと、恥ずかしすぎて書けないし、受け手にも共感してもらえないから(とワタシは解している)。(前にも書いたけど)真に大切なことほど、おしまいに「なんちて」の一言を添える含羞が必要。これを自分のなかでは「なんちて理論」と名付けている。この作品そのものがシリアスなものとコミカルなものの融合を描いているわけだが、シュトラウスは「ナクソス島のアリアドネ」を書く前から、ずっと「なんちて」を言い続けている作曲家じゃないだろうか。交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき、なんちて」「英雄の生涯、なんちて」。「サロメ」だって怖くて煽情的なオペラだけど、「7つのヴェールの踊り」のところは笑わせてくれるシーンであって、やっぱり「サロメ、なんちて」なんである。
●逆に言えば「なんちて」である以上、その前段階のシリアスが本当に立派でなければ意味がないわけで、アリアドネとバッカスの歌唱の鳥肌級の美しさと来たら! バッカスという存在がワーグナー・パロディ的な可笑しさを内包するものである以上、その歌唱は圧倒的に真摯で力強いものでなければならない。つい先日、新国立劇場でジークムントを歌っていたステファン・グールドがここにいるという現実が大きな意味をもたらしてくれた。

Photo: Kiyonori Hasegawa

October 26, 2016

フライブルク・バロック・オーケストラ II

●24日はトッパンホールでフライブルク・バロック・オーケストラ。今回は弦楽器14名とチェンバロ1名でのコンパクトな編成で来日。ヴィヴァルディの2本のヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ニ短調(調和の霊感 第11番)、バッハのヴァイオリン協奏曲第1番イ短調、コレッリの合奏協奏曲ヘ長調 Op.6-2、ヘンデルの合奏協奏曲ニ短調Op.6-10、バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調、ヴィヴァルディの4本のヴァイオリンのための協奏曲ロ短調(調和の霊感 第10番)。先立って21日にももう一公演あって(そちらは聴けず)、同様にヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、コレッリのプログラムが組まれていた。似たような演目で2日間になっていて、どんなふうに曲を分けたんだろう。一日目が長調中心プロ、二日目が短調中心プロではあるんだけど、そういうことでもない?
●ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツとペトラ・ミュレヤンスのヴァイオリニストによるダブル音楽監督制を敷いているのがユニーク。ふたりのキャラクターがかなり違っていて、自分の感じるところではゴルツはシリアスで強靭、ミュレヤンスは楽しげで軽やか、チャーミングな性格をもたらしてくれる。アンサンブル全体のキャラクターはゴルツによるところが大かなと思うんだけど、ミュレヤンスみたいなノリがないと堅さ一辺倒になるだろうから、ふたりが相補的な役割を果たしているのかなと想像。バッハのヴァイオリン協奏曲第1番のソロはミュレヤンス(CDでも同じ)。曲想的にはいかにもゴルツなんだけど。たとえばヘンデルのOp.6-10の終曲みたいな曲、おちゃらけぎみで愛想を振りまくようなカワイイ系の曲なんかでも、うっすらと謹厳な空気が漂うのがこのアンサンブルの持ち味か。切れ味鋭く、多彩で起伏に富んだ協奏曲を満喫。特にバッハの両曲がすばらしい。
●アンコールは2曲。ヴィヴァルディの弦楽のための協奏曲イ長調RV158から、第1楽章。続いて同じく第2楽章。

October 25, 2016

ウィーン国立歌劇場2016日本公演 開幕記者会見

ウィーン国立歌劇場2016日本公演 開幕記者会見
●24日は上野の東京文化会館でウィーン国立歌劇場2016日本公演開幕記者会見。今日から「ナクソス島のアリアドネ」が始まるわけだが、それに先立って会見が行われた。歌劇場総裁のドミニク・マイヤー、指揮のマレク・ヤノフスキ、「ナクソス島のアリアドネ」で主要キャストを務めるグン=ブリット・バークミン、ダニエラ・ファリー、ステファニー・ハウツィール、そしてステファン・グールドが登壇。会見場はなんと、ステージの上。記者たちは「ナクソス島のアリアドネ」のセットと思しきステージ上の客席に座るという趣向で、正面にはひな壇があり、その向こう側に文化会館の広大な本物の客席が広がっていた。これも「ナクソス島のアリアドネ」ならでは。おもしろい。以下、印象的だったコメントを拾ってみる。
●マイヤー総裁。総勢300名以上での引っ越し公演で、日本公演はウィーン国立歌劇場にとってとても大切なものであり、楽しみにしている。ウィーンでも公演は行われているので、10月は合計40公演を行なうことになる。今回はウィーンゆかりの作曲家たちの作品が上演されるが、なかでもリヒャルト・シュトラウスはこの劇場のかつての総裁であり、初演100年を迎える「ナクソス島のアリアドネ」を上演できてうれしく思う。
●ヤノフスキ。「ナクソス島のアリアドネ」は歌手陣をそろえるのが大変だが、今回は各役にすばらしい歌手が集まった。特にテノール/バッカス役は本当に難しく、これを歌える人はほんのわずか。ステファン・グールドが(急逝したボータの代役として)来てくれて、とてもうれしい。みなさん、明日までに病気にならないように(一同笑)。この作品はオペラではあるが、オーケストラは室内楽的な編成で、合計36人で演奏される。ひとりひとりがソリストであり、室内楽のように演奏しなければならない。最後は36人がくたくたになって終わるオペラ。
●グールド。みなさんご存知のように、9月の初めから新国立劇場の「ワルキューレ」でジークムントを歌っていた。その後、台湾でコンサートがあり「大地の歌」を歌って、すぐにまた東京に戻ってくることになった。私はウィーンに住んでいるので、この劇場のために歌えるのはうれしいこと。しかしなぜ今ここにいるかといえばボータの悲しい知らせがあったから。今回歌えることを名誉だと思っている。このプロダクションがウィーンで最初に上演された際のキャストが私だったので、ベヒトルフの演出についてはよく知っている。ノーマルでコンパクトで、演出が音楽や人物像を壊すことはない。人物描写にすぐれた演出だと思う。
●公演は25日、28日、30日、東京文化会館にて。
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●この会見の直後、同じ東京文化会館内の会議室に移動して、東京・春・音楽祭2017の会見へ。ヤノフスキも移動して、続けて登壇。その模様はまた後日に。

October 24, 2016

清水真弓 トロンボーン・リサイタル ~ スーパー・リクライニング・コンサート

●20日は白寿ホールのスーパー・リクライニング・コンサートで清水真弓トロンボーン・リサイタル。ピアノは末永匡さん。清水さんは南西ドイツ放送交響楽団の首席奏者として、また意欲的なレコーディング活動でも注目されるトロンボーン奏者。トロンボーンのリサイタルというもの自体、めったなことでは聴けないわけで、レパートリー的にも新鮮。ロパルツの変ホ短調の小品、ペルゴレージのシンフォニア、ジョンゲンのアリアとポロネーズop128、ブラームスの間奏曲op118-2(これはピアノ独奏)、藤倉大のトロンボーン独奏のための deliquesce(2015年委嘱作品)、シューマンの「リーダークライス」op39より4曲、ヨルゲンセンのロマンスop21と、バロックから現代まで多彩。旋律楽器としてのトロンボーンの魅力を発見する。のびやかで、ほとんど甘美といってもいいくらい。冒頭、技巧的なロパルツでガツンと始まって、そこからブラームスの小品一曲をのぞいて休みなく吹き続ける休憩なし1時間のプログラム(これを一日に昼と夜とで2回)。藤倉作品はワウワウミュートを使って、まるでトロンボーンが「話す」かのような曲。音そのものがユーモラスだが、ソロなので相手がいないのにずっと独り言をつぶやいている感もあって微妙にクレイジーなテイスト。ワタシはこの曲名がわからなくて、後でdeliquesceを辞書で引いたら「溶解する」と出てきて、ああ、曲の終わりのところがそういうことだったのかなと(なぜ訳さないんでしょ)。
●しっかりトーク入りのコンサートだったんだけど、清水さんの話しぶりが率直でサバサバしてて、すごく親しみが持てる。別にギャグじゃないんだけど笑えるという場所がいくつもあったんだけど、なんだったかなー。で、このスーパー・リクライニング・コンサートって、白寿ホール名物のリクライニングシートが売り物で、さあ寝てくださいといわんばかりに席が最初からリクライニングになっているんすよ。だからといって眠ろうとは思わないし、だいたいはこれ聴いてフツー寝るか?と思うようなプログラムなんだけど。と、思っていたら、アンコールでプッチーニの「だれも寝てはならぬ」トロンボーン版を演奏してくれた。笑。このホールでこの曲を演奏した人は過去にもいたんだろうか?

October 21, 2016

マスカーニのオペラ「イリス」演奏会形式、バッティストーニ指揮東京フィル

●20日はサントリーホールでバッティストーニ指揮東フィルによるマスカーニのオペラ「イリス」。演奏会形式ではあるんだけど、可能な限り舞台上演に近い演奏会形式が目指されていて、演技あり、照明演出あり、スクリーンへの投射あり、客席通路の活用ありと、とても工夫されていた上演。これは演出家の名前がクレジットされるべきだよなあ……と思って、プログラムをよく見たら「指揮・演出:アンドレア・バッティストーニ」と書いてあった。なるほど、そうだったのね。ラケーレ・スターニシ(イリス)、妻屋秀和(チェーコ)、フランチェスコ・アニーレ(大阪)、町英和(京都)、鷲尾麻衣(ディーア/芸者)、伊達英二(くず拾い/行商人)、そして新国立劇場合唱団という万全の布陣で、歌手陣強力。全席完売で客席は盛況。
●で、「イリス」なんである。日本を舞台にした「蝶々夫人」と並ぶイタリアのジャポニズム・オペラ、ではあるんだけれど、「蝶々夫人」とはまったく別の種類のオペラ。もっとも魅力を感じるのはマスカーニによる後期ロマン派スタイルの鮮烈で分厚い管弦楽法。プッチーニへとつながってるんじゃなくて、むしろワーグナーとリヒャルト・シュトラウスの間に入る感じ。第1幕が終わったところで思わずプログラムで初演年を確認してしまった。1898年。シュトラウスが「サロメ」以降の主要オペラを書くより少し前、ワーグナーが「パルジファル」初演の16年後というタイムライン。プッチーニでいうと「ラ・ボエーム」初演の2年後。先駆的か。「カヴァレリア・ルスティカーナ」とはずいぶん様相が違っているわけだけど、でも一方で同様に甘美でもあり。バッティストーニ指揮東フィルによる精妙で起伏に富んだ演奏。これを新国立劇場のピットでも聴きたいもの。
●第2幕だったかな、大阪(という投げやりなネーミングの登場人物がいるんすよ)が「イリス」に対して、名乗る場面があるじゃないですか。「私の名は……欲望!」。オペラに名乗りのシーンはいろいろあるだろうけど、やっぱりワーグナー「ワルキューレ」のジークムントを思い出してしまう。「フリートムント(平和)やフローヴァルト(喜び)でありたいけれど、ヴェーヴァルト(悲しみ)と名乗ってしまうこの私。冬の嵐がどうたらこうたら。ならば、これよりジークムントと名乗りましょう!」の名場面(←かなり略)。「イリス」の初演にはワーグナーの息子ジークフリートも立ち会っていたそうなんすよ! うおおお。
●このオペラ、初演直後は世界各地で上演されるくらい人気だったのに、今じゃぜんぜん人気がない。でも、それももっともだと思った。雄弁な音楽に対して、この台本のわかりにくさときたら。イリスはどうして吉原に売られることになったのか、ぜんぜんわからない。吉原まで盲目の父親が追いかけてきて、助け出そうとするのかと思ったら、娘に会うや否や呪いの言葉を浴びせかける。で、絶望してイリスは身投げするってことになってるんだけど、いつどうやって死んだのかよくわからなかったり、死んだ後も続く最終場(音楽はすばらしい)もなにがどうなってるんだか。神話とか詩みたいなものだと思えばいい? そうなんだけど、だとしてもオペラには現代のわたしたちに訴えかけるようなテーマ性があってほしい。もしこの音楽にもっとすぐれた台本があったら、今でも人気作だったかもしれない。やっぱり台本の違いが他の名作オペラと運命を分ける原因になったのだよなあ……。
●と、一瞬思いかけたが、いやいや、待て待て。宿敵の赤ん坊を火にくべようとしてまちがえてわが子を燃やしてしまうトンデモ台本だって名作オペラになってるじゃん! ありゃ、いったいどういうことなんだ。
●そう考えると、台本から音楽までぜんぶ創出して、それが現代でもまったく色褪せないワーグナーってやっぱり桁違いの巨人であるね。
●スクリーンに出てきた蛸って、北斎の「蛸と海女」っすよね。まさかの触手オペラであった。

October 20, 2016

シルヴァン・カンブルラン指揮読響、五嶋みどり

●19日はサントリーホールでシルヴァン・カンブルラン指揮読響。五嶋みどりが2曲の協奏曲を弾いてくれた。前半にシューベルト~ウェーベルン編曲の「6つのドイツ舞曲」、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲、後半にヨハネス・マリア・シュタウト(1974~ )のヴァイオリン協奏曲「オスカー」日本初演、デュティユーの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」。新しい作品中心のプログラムだが全席完売。シューベルト~ウェーベルン~コルンゴルト~シュタウト(インスブルック生まれでウィーンに学ぶ)という19世紀から21世紀にわたるウィーン音楽をたどった末に、最後はデュティユーで締めるというプログラム。
●より刺激的だったのは後半。シュタウトの「オスカー」は通常の弦五部におびただしい数の打楽器が加わるという管楽器なしのオーケストラと独奏ヴァイオリンによる協奏曲。約18分ほどの曲で全体が5つの部分に分かれているとあって各部は簡潔、多種多彩な音色を用いた音の対話が繰り広げられる。初演者である五嶋みどりのソロは圧巻。技巧と情念が離れ技的にバランスする。デュティユーの「ル・ドゥーブル」は初めて生で聴いたんだけど「あー、こういうことだったんだ」とやっと趣向を知る。これは録音じゃ伝わらない。ふたつの管弦楽群が用いられてて、指揮者の周りをぐるりと小オーケストラが囲み(オーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、ティンパニ、チェレスタ、チェンバロ、弦楽四重奏)、その外側に二管編成のオーケストラが広がるという配置になっていて、大小それぞれのオーケストラの間で音色やダイナミズムの対比に加えて、音の遠近感みたいなものが生まれるようになっている。「小」のほうにティンパニなんかも入っているので、舞台上は視覚的にも斬新。「小」のチェンバロは鈴木優人さんだった! 作品の初演は1959年。曲想からほかの20世紀の作曲家も連想する。全般に官能性の要素を強く感じたかな。終楽章のおしまい、静かに消え入るように曲を閉じるところが美しい。

October 19, 2016

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団、イザベル・ファウスト

●15日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。創立70周年記念ヨーロッパ公演プレコンサートとして、ツアーでのプログラムを先立って東京でも。前半にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(イザベル・ファウスト)、後半にショスタコーヴィチの交響曲第10番。エキサイティングな公演だった。
●ベートーヴェンではナチュラルトランペットを使用。ティンパニがバロックなのはいつも通り。弦も対向配置なのだが、普段と違ってコントラバスが後方に一列に並んでいる(ウィーン楽友協会シフトなんじゃないかの声、多数)。最初の一小節のティンパニの刻みからゾクッと来た。イザベル・ファウストのソロは語り口豊かで、新鮮。カデンツァはベートーヴェンが同曲をピアノ協奏曲として編曲した際に作られたバージョンをもとにしたものが使われた。独奏ヴァイオリンにティンパニが共演するという異色のカデンツァ。このバージョンを使う試みはけっこう昔からあると思うんだけど、いまでも効果抜群。そもそもベートーヴェンがカデンツァにティンパニを入れてやろうと思った先駆性が今も生きているわけで。第1楽章が終わったところで拍手が出たが(東京のオケ定期ではきわめて珍しい)、これはもうイザベル・ファウストへのスペシャル賛辞としか取れない。
●第2楽章から第3楽章に移行する際に入るカデンツァ、さらに第3楽章に突入した後、独奏ヴァイオリンにロンド主題が回帰する直前のフェルマータでも小さなカデンツァが入っていたけど、これらもたしかベートーヴェン本人がピアノ協奏曲用に編曲した際に書いたカデンツァに由来しているんすよね? ベートーヴェンは自分用に編曲したわけではないんだけど、やっぱりピアノ用に書けば入念なカデンツァになるのだな、と。なにせピアノ協奏曲にはあれだけ立派なカデンツァを書いているわけだし。
●後半のショスタコーヴィチは壮絶。常々、会見などでノットは「リスクを取った演奏をしたい」というようなことを語っているけど、まさにそんな感じで、オケをギリギリまで追い込むような指揮ぶり。交響曲第10番といえば、作曲者の名前を音名に読み替えたDSCH音型が大活躍するオレオレ交響曲だが、第3楽章で頻出するホルン音型が親しい教え子の名前を音名に読み替えているっていうじゃないすか。どんだけ露出したいんすか、ショスタコーヴィチは。エゴ大爆発のオレオレ無双。わけわからん。だけど、あまりに苛烈な音響に心揺さぶられる自分が悔しい。
●終演後、客席の喝采がなかなか止まない。楽員が退出しても止まずに、ノットのソロ・カーテンコールに。この日の演奏のすばらしさに加えて、欧州ツアーにエールを送るといったニュアンスもあったと思う。
●コンサートの後の復習(?)としては、イザベル・ファウストがアバド指揮モーツァルト管弦楽団と共演した録音もあるわけだが(カデンツァはやはりピアノ協奏曲編曲版を使用)、そもそもそのベートーヴェンがピアノ用に編曲したピアノ協奏曲ニ長調op61aも聴きたくなる。録音はいくつかあるけど、ベレゾフスキーの独奏でダウスゴー指揮スウェーデン室内管弦楽団っていうのがおもしろそう。

October 18, 2016

ユリア・フィッシャー ヴァイオリン・リサイタル

●12年ぶりの来日となったユリア・フィッシャー。かつてひとつの公演でサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番とグリーグのピアノ協奏曲の両方で務めたこともあるという異才の持ち主。天才美少女時代の印象が強いんだけど、なにせ時は秒速1秒の猛スピードで流れており、もうすっかり成熟した大人の音楽家になっていたのであった。
●で、15日は東京オペラシティでピアノのマルティン・ヘルムヒェンと共演してリサイタル。「ソナチネ」が4曲中3曲もあるという珍しいプログラム。前半にドヴォルザークのソナチネ ト長調、シューベルトのヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番ト短調(これは当日発表で追加された曲)、後半にシューベルトのヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調。シューベルト作品はPENTATONEレーベルからこのコンビによる録音がリリースされている。ソナチネなんて呼ばれてはいても、決して子供向けの作品なんかじゃないよ、というメッセージが込められたようなプログラム。それはまあ、そうなんだと信じられるんだけど、あまりに演奏のクォリティが高いがゆえに、ランボルギーニで徐行運転してるみたいなもどかしさも感じなくはない。「12年ぶり」とか思うからなのか。ブラームスのソナタ第3番が始まったときの「待ってました!」感は半端じゃない。アクセルがぐっと踏み込まれる。男前なブラームス。なんてすばらしい曲なの、と留飲を下げる。アンコールにブラームスのF.A.E.ソナタ~スケルツォ。

October 17, 2016

イザベル・ファウスト&クリスティアン・ベザイデンホウトのオール・バッハ・プログラム

●例年、秋はコンサートラッシュだが、体感的にはこの一週間前後がピークという気がする。数が多いというだけじゃなくて、インパクトの質とか中身の重さとかもあれこれ含めて。
●少し遡って、10日は彩の国さいたま芸術劇場でイザベル・ファウストとクリスティアン・ベザイデンホウトのオール・バッハ・プログラムへ。与野本町駅は遠いんだけど、ここの音楽ホールは環境的に最強。最強に強まる埼京線。曲はヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第3番ホ長調、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番ロ短調、トッカータ ニ短調 BWV 913、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番ト長調。ひたすら楽しい。以前の濃密で凝縮された無伴奏もすばらしかったが、今回のメインはヴァイオリンとチェンバロとのソナタ。無伴奏よりも開放感とエンタテインメント性が高いのが吉。一人で立つのと、ベザイデンホウトというパートナーを得て対話をくりひろげることの違いでもあり。楽章ごとに2種類の弓を使い分けていたのが興味深い。一曲、ヴァイオリンには無伴奏ソナタがさしはさまれるが、チェンバロにもトッカータのソロがある。だけじゃなくて、ソナタ第6番ト長調は第3楽章がチェンバロのソロになっているのであった。どうしてバッハはこんな趣向を用意したんすかね。5つの楽章をシンメトリカルに配置するというアイディアがまずあったとして、その中央にチェンバロのソロを置くというのは、なにか先例があってのことなんだろうか。
●ベザイデンホウトがある時期に一気に痩せて猛烈に男前になったことにいまだに感銘を受けている自分。ハルモニア・ムンディ・フランスからリリースされているモーツァルトのソナタ・シリーズの一部ジャケ写にふっくら時代の痕跡が残っているのが、たびたび目に入ってしまうので。どうやってあんなに痩せられるのか、だれかに聞いてほしい。エンリコ・オノフリとの古楽ダイエット談義とかでも可(なんだそりゃ)。あとイザベル・ファウストのステキ度も上がっていたのは、どういう現象なのか。

October 14, 2016

ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルの「第九」

●今年はウィーン・フィルをもう一公演。12日、サントリーホール開館記念日コンサートでズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン「第九」。サントリーホール30周年記念合唱団、吉田珠代(ソプラノ)、藤村実穂子(メゾソプラノ)、福井敬(テノール)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ(バス)。この日のメータもオーケストラから内発的にわき上がる音楽を紡ぎ出すような指揮ぶり。メータの「第九」というと、震災直後のN響とのチャリティ・コンサートが語り草になっているが(ワタシは生では聴いていない)、これは30周年の祝祭の「第九」。記念日にふさわしい喜びの音楽であり、コーダの直後にあがった客席の歓声もどこか明るかったような気がする。合唱団員まで見送る長い長い拍手の末に、メータのソロ・カーテンコール。最後まで残っていた人たちから盛大なブラボー。1階の前方にお客さんが集まってきてメータに拍手を送る姿を見ていると、なんだか昔のカール・ベームを思い出す。メータも80歳ですっかり老巨匠。
●1986年10月12日に開館して30周年を迎えたサントリーホール。ベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホールでは、その開館直後にベルリン・フィルが小澤征爾とともに来日してサントリーホールで公演を行なった際のライヴが公開されている。すごい、こんなの出てくるんだ。シューベルトの「未完成」とR・シュトラウスの「英雄の生涯」。有料会員でなくてもトレーラーは視聴可。小澤さん、髪が真っ黒で若い(そりゃそうだ)。まだ指揮棒を持っている。ベルリン・フィルも昔のベルリン・フィルだ。当初カラヤンが指揮するはずだったのが病気でキャンセルになって、急遽小澤征爾が代役に立った。この公演、NHK-FMの中継で聴いたような記憶がうっすらあるんだけど、なにせ30年前だからはなはだ怪しい。
●この映像、客席はちらりとでも映るんだろうか? 今とは雰囲気が違うと思うんだけど。後日、確認してみよう。

October 13, 2016

ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルの「グレイト」

●9日夜はミューザ川崎でズービン・メータ指揮ウィーン・フィル。モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ドビュッシーの交響詩「海」、シューベルトの交響曲第8番(第9番)「グレイト」。いろいろな事情があって一日に読響とウィーン・フィルをはしごすることになってしまったのだが、なんと、「グレイト」が重なることに(そして、もし昼にノット&東響のほうに行っていたら、「海」が重なってた)。奇遇。カンブルランの刺激的な「グレイト」を聴いた後では、「老舗の味」は色褪せてしまうんじゃないかと案じたりもしたがこれはまったくの杞憂で、ぜんぜん別の方向で刺激的だった。
●弦は対向配置で、パーヴォやブロムシュテット、ノットが採用しているのと同様に下手にコントラバスを置き、第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンと並ぶ。最近のメータはいつもそうなんだっけ? で、「ドン・ジョヴァンニ」序曲は、コーダが珍しいバージョンで、オペラ全体のエンディングにつながるものだった。プログラムノートにも特に記載がなかったのでびっくり。
●でもいちばん驚いたのは「グレイト」で、なんと、指揮者の周りを8人の木管楽器奏者たちがぐるりと囲むという配置になっていた。フルート、オーボエ、ファゴット、クラリネット各2名が並ぶ。協奏交響曲風というか。これが効果抜群。ウィーン・フィルの木管奏者たちの愉悦に満ちたアンサンブルをたっぷり味わえる。演奏中に奏者同士で笑みを交わすようなコミュニケーションもよく見えるのが吉。弦楽器は大編成で豊麗。オーケストラ全体としてはかなり緩やかな雰囲気で曲が始まって、どうなることかと思ったら、曲が進むにつれて集中度を増して、最後は白熱したクライマックスが築かれた。メータがオーケストラをドライブするというよりは、オーケストラに作品を預けて彼らが持っている音楽をうまく引き出してみせたといった感。これは彼らならでは。客席は大いに沸いた。アンコールにドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番(だっけ?)。メータのソロ・カーテンコールあり。
●「グレイト」の終楽章で、一度、メータはわざわざ客席側からぐるりと回って第2ヴァイオリンにキューを出して、一瞬客席が「!」ってなった。この技になにか名前がほしい。回転する80歳。謎。

October 12, 2016

オーストラリアvsニッポン@ワールドカップ2018最終予選

オーストラリア●ふー。ジリジリと苦しい気分で90分の大半を耐えた試合だったけど、いやー、サッカー、すばらしいじゃないか。イラク戦でもう代表戦なんてヤになったって言ってたけど、前言撤回。サッカーはすばらしい。これがサッカー。今までのイラク戦とかUAE戦とかはサッカーとはまた別種の「アジアの戦い」で、ニッポン対審判対UAEみたいな謎競技だった。でもアウェイのオーストラリア戦だと、中東の笛が普通の笛になるという不思議。今までの2試合はなんだったの(またそのうち「アジアの戦い」に戻るわけだけど……鬱)。
●まず、現在FIFAランキングでアジア最高位のオーストラリアについて。一時期世代交代に苦しんでいたように見えたが、今はすっかりモデルチェンジして、以前よりずっといいサッカーを目指している。かつてはハーフウェイラインより手前でフリーキックをもらっても、そこからニッポンのゴール前に放り込んでくるような腹立たしいサッカーをしていたのに、今はもっとゴール近くでもすぐにリスタートしてボールをつないでくる。正しい。あんなフィジカル頼みの放り込みばかりやっていれば目先の1ゴールは奪えるかもしれないが、中長期的にはサッカーの質がじわじわと低下していく。アジア対策ではない世界標準のサッカーを目指すのは圧倒的に吉。後半はニッポン相手に大半の時間、ボールを保持していた。本来、オーストラリアは勝ってしかるべきゲームだったと思う。終盤で、クロスボールに対してスピラノビッチが頭で合わせて、バーの上に外したシュートがあったけど、あれはケイヒルをケアするあまりにニッポンのマークも付いていけていなかったので、この試合でいちばん決まりやすいシュートだったんじゃないだろうか。ニッポンは救われて1対1で勝点1をゲットした(というかオーストラリアに3を与えなかった)ゲームだという認識。
●で、ニッポン。前の試合の後、もしかして久々の本田のトップもありえたりして……と薄々思っていたら(ホントだって!)、まさにそうなった。岡崎がさっぱり不調だったし、かといって浅野を試合開始から使うと屈強なオージーたちの間でつぶれるばかりでスピード勝負が生きてこない。でもほかにトップができる選手がいない。だったら本田じゃないの? というのはかつて岡田武史監督もワールドカップ本番で使った妙手だったが、ハリルホジッチも同じ手を使った。あと、長友がけがをして酒井宏樹が出場停止で手薄になったサイドバックは、槙野が左サイドに入った。GK:西川-DF:酒井高徳、吉田、森重、槙野-MF:山口、長谷部-小林悠(→清武)、香川、原口(→丸山祐市)-FW:本田(→浅野)。
●前半5分のニッポンの先制点はハリルホジッチ的には理想的な形なんだろう。相手のパスミスを原口がカットし、これを長谷部、本田とつないで、原口へスルーパス。抜け出した原口はキーパーの右を抜いてゴール。効率的なショートカウンター。今はどこだってこういうサッカーを狙っている。失点は原口が与えたPKから。あれは取られると思った。小林悠は待望の先発。サイドを崩したクロスから惜しいヘディングシュートがあったが、キーパーがファインセーブ。原口に代わって入った丸山祐市は代表デビュー。終盤だったので守り切るための交替。香川に覇気がない。ボールを奪ってもすぐに相手に渡してしまい守り続ける展開だったが、しかしディフェンスを崩されたという場面はほとんどなかったんじゃないだろうか。
●ハリルホジッチは「勝点2を失って悔しい」という。とはいえ、どっちの監督も内心は安堵したんじゃないかな。グループ1位のオーストラリアとしては、ニッポンに3点を与えず浮上させなかったという点で悪くないし、ニッポンはアウェイのオーストラリア戦という(アジアの戦いではなくサッカー的な意味の)最難関で負けなかったんだから。

October 11, 2016

シルヴァン・カンブルラン指揮読響の「グレイト」

●9日は東京芸術劇場でシルヴァン・カンブルラン指揮の読響へ。ラモーの「カストールとポリュックス」組曲(4曲だけ)、モーツァルトのピアノ協奏曲第15番(マルティン・シュタットフェルト)、シューベルトの交響曲第8番(第9番)「グレイト」という楽しすぎる極楽プログラム。ラモーはヴィブラートを控えて端正。モーツァルトではシュタットフェルトが個性的な演奏を披露。マニアックな閉じたミニチュア世界で羽ばたくモーツァルトというか。低い椅子に座って、目の前の虚空を凝視しながら弱音中心の念入りな表現。音色が独特で、フォルテではくすんだトーン、でも弱音ではむしろきらびやか。指はとてもよく回る。シャレオツ、だろうか。でもキャッチを付けるなら「低糖質モーツァルト」かな。繊細そうな学生さんに思い切りご飯を大盛りでよそってしまう学食のオバチャンの気持ちに仮想的に共感してみる。シュタットフェルトを見てると、いまだグールドの呪縛みたいなものが生きてるのかなとつい思ってしまうんだけど、先入観に毒されすぎだろうか。でもきっとまた聴く、おもしろいから。
●後半の「グレイト」は快演。冒頭のホルン主題がずいぶん速いテンポではじまって、えっ、こんなスピードで行くのと思っていたら強弱のメリハリをつけながらぐんぐん進む。驀進するシューベルト、フランツまっしぐら。ダサいタメなんて入れない。終楽章はほとんど踊るためのビート・ミュージック、反復することの快楽。芸劇のお客さんたちがいても立ってもいられなくなって、思わず立ち上がって踊り出す(というのは大ウソだ)。もちろん、最後の一音はズバッと終わる。ビバ、天国的な長さ。ていうか、ぜんぜん長くない。

October 7, 2016

ニッポンvsイラク@ワールドカップ2018最終予選

ニッポン!●あー、もうヤだ。代表のファンなんてやめる、そんな気分になった、アディショナルタイムに山口が見事なボレーシュートを決めて勝利した、その瞬間にでさえ。ヤだヤだ、アジアの戦いって、なんだか痛々しい。
●1勝1敗、グループ3位で迎えたワールドカップ2018最終予選はホームでの対イラク戦。気がついたら今季は欧州組主力選手たちの多くが所属チームでポジションを失っている。岡崎、本田、香川、長友……。セビージャの清武もナスリなんかが来たばっかりに。試合に出ていない選手たちが長距離移動をしてホームで戦うニッポン代表。フィジカルのコンディションは冴えない。じゃあ、Jリーグの選手を使えばいいじゃん! といいたくもなるが、リーグの競技レベルの差は歴然。ハリルホジッチだって頭が痛いだろうに。
●GK:西川-DF:酒井高徳、森重、吉田、酒井宏樹-MF:柏木(→山口)、長谷部-原口、清武、本田(→小林悠)-FW:岡崎(→浅野)。代表復帰の柏木は、センターバックの手前からボールを配給して攻撃を組み立てるという役割。岡崎と本田の体が重そう。ベルリンで好調の原口はキレキレ。前半26分、カウンターからの先制点は鮮やか。清武から本田にパスが出て、清武は右サイドから本田を追い抜いて、ふたたびパスをもらって低くて速いクロスボールを入れ、中央で原口が技巧的なヒールでシュートを決めた。しかし後半15分、フィジカルで勝るイラクは、なんでもないような場所からのフリーキックで、長いボールを放り込んでアブドゥルアミールが頭で合わせるという効率的すぎる攻撃で同点弾。時間が進むにつれてニッポンの支配率は高くなったが、決定力を欠くというおなじみの展開に。試合終了直前の後半50分、セットプレイから入れたクロスのこぼれ球に、走り込んだ山口がダイレクトボレーで蹴り込んだのが決勝点になって、2対1で劇的な勝利。
●イラクは2007年のアジア・チャンピオン。ここまで2連敗しているが、地力のあるチームという認識。実際、アウェイにもかかわらず試合開始からニッポンに対してプレスをかけて、序盤はゲームの主導権を握っていた。これまでの引いて守る相手とはまったく違う。ところが後半途中からは中東のお家芸ともいうべき露骨な時間稼ぎが始まってがっかり。弱いチームがやるならまだしも、元チャンピオン・チームがそれをやるかね。そして時間稼ぎをやったあげくにアディショナルタイムに失点すると、笛が鳴ってからも主審に食って掛かる。彼らは韓国人主審が不平等な笛を吹いたと思っているかもしれないが、95分の間、ずっとこちらも同じことを思っている。どうしてニッポンにはPKもゴール前のフリーキックも与えられないのに、イラクの選手は転んだだけで笛を吹いてもらえるのだろう、と。なんだかなー。
●最後の山口のダイレクトボレーは10回蹴って何回入るゴールだっただろうか。すぐにアウェイのオーストラリア戦がやってくる。憂鬱だ。うっかり試合を見るのを忘れて、翌日くらいに結果だけ知ったほうがいいんじゃないか。と思いながらも、録画予約を確認する自分。

October 6, 2016

新国立劇場「ワルキューレ」 (ゲッツ・フリードリヒ演出)

●5日は新国立劇場で「ワルキューレ」(新制作)。晩年のゲッツ・フリードリヒが1996年からフィンランド国立歌劇場で制作したプロダクションを用いている。昨年の「ラインの黄金」は見逃してしまったので、途中からの参戦に。飯守泰次郎指揮東京フィル。皇太子殿下ご臨席。
●歌手陣の声が強烈。ジークムント役のS・グールドが圧巻。大管弦楽団をものともしない強靭な声、しかも余裕を感じさせるほど。第1幕の「ヴェーーーーーールゼーーーー!」はたっぷりと。「冬の嵐」の抒情性も満喫。イレーネ・テオリンのブリュンヒルデはまさに戦乙女という強さと可憐さを併せ持ち、エレナ・ツィトコーワのフリッカは冷たくコワイ奥さんで、ヴォータンのグリア・グリムスレイは怒れる悲しい父親。ジークリンデはジョゼフィーネ・ウェーバー。必ずしも同情を誘わないヒロイン。
●ジークムントとジークリンデ。オリンピックに向けてダイバーシティと共生を掲げる首都東京も狼狽するほどの禁断の双子兄妹カップル。双生児の交配、遺伝子的にもぜんぜん歓迎できない。それなのに、ブリュンヒルデったら!
●演出について。かつてここで目にした、おもちゃ箱をひっくり返したようなキース・ウォーナー演出に対して未練タラタラなので、どうしても比較してしまうのだが……。あの「リング」から時が経ってからの90年代のゲッツ・フリードリヒなので、過去にタイムスリップした感はある。たとえば第1幕、床が傾斜しているじゃないっすか。あれを「登場人物の不安や人間関係の不協和のメタファーなんだな」って受け入れるようなオペラの見方を、自分はしない。そうじゃなくて、傾いているなら、なにかを(ボールでも人でも)転がすとかしてほしい。まず先に転がったり、こけたりとかを劇中で見たその後で、「あ、あれが傾いていたのは登場人物の心理状態の反映でもあったんだ」と腑に落ちるような重層性があると納得できる。あるいは第3幕。ワルキューレたちがお互い同士や英雄の死体、槍などを相手に戯れて放埓さを表現する。なんだか昭和のオッサンっぽい。全般にヴォータンがひんぱんに槍の穂先を他者に向けるシーンが多いのも気になった。これはヴォータンの強権性を表現するものだと思うが、自分は悩める弱いヴォータン像に共感しすぎているのだろうか。見どころは、第2幕のジークフリート対フンディングの対決シーン、第3幕のヴォータンの告別と魔の炎の場面。スペクタクルだった。第2幕で木馬が出てくるところはふとキース・ウォーナーを思い出させる。自分が「リング」に期待するのは「笑い」なのかも。
●で、つい演出にはいろいろ言いたくなるのだが、しかしこの第3幕ほど目頭を熱くさせるオペラの名場面はないということを改めて感じる。こんな奇跡みたいな台本も音楽も両方作ってしまうワーグナー、天才すぎ。この父ヴォータンと娘ブリュンヒルデの長々としたやりとりは本当に味わい深い。娘が幼いころからすごく仲良しで、なんでも話せるしわかりあえる強い絆で結ばれた父と娘で、ふたりとも相手のことが大好きだったはずなんだけど、なんだか最近ケンカが多くなって、関係がぎくしゃくしてきて、いったいどうしてこんな対立ばかりするようになってしまったんだろう……と思ったら、ふと気づく。あ、これって、娘が親元を離れるときがやってきたんだね。そういうファミリードラマ。だから「ワルキューレ」はワーグナーでは数少ないハッピーエンドの物語だと思う。

October 5, 2016

Jリーグ、ふたたび1シーズン制へ、優勝賞金を4倍以上に

●昨日のJリーグ実行委員会で、来季からJ1が1シーズン制に戻ることで合意が得られたとか。ほっ。現行の2ステージ制のチャンピオンシップについて、スポンサーとの契約は2018年まであったが、先方の理解も得られて暗黒の2ステージ制は2季で終わることになった。あー、これで来年から本物のリーグ戦が戻ってくる。
●なんでそんなことが可能になったかといえば、ひとえに英パフォーム・グループと10年2100億円の放送権契約を結んだから。ドカーンとお金が入って来たので、もうチャンピオンシップのテレビ地上波放映のために変則的なステージ制を続ける理由がなくなった。
●それだけじゃない。報道によれば、J1優勝チームの賞金がこれまで最大4億8000万円だったのが、一気に21億5000万円に。優勝したチーム以外への分配金も増えるようだし、降格チームには2年間にわたって安定基金を支給するとか(これはプレミアリーグでもやってる)、全般に大盤振る舞い。すばらしい。入ったお金をチームの強化費として配分する。アジア・チャンピオンズリーグの規定変更を見越して、外国人枠も広がりそう。
●で、パフォーム・グループに売った放映権のおかげで、急に今までとは別世界が広がったわけだが、とはいえ、サッカー界では特別バブリーな話ではないんすよね。だって最高でも賞金21億5000万円すよ。今季イングランドのレスターがポルトガルのスポルティングCPから獲得したスリマニの移籍金がポンド安の今で約34億6000万円+出来高払いだっていうんだから、優勝賞金全額突っ込んでもアルジェリア代表の中心選手は買えない。ちなみにプレミアリーグの放映権は英国内のみで3年7000億円だとか。単純計算なので厳密性は欠くだろうけど、ざっくり一年あたりプレミアリーグが2300億(国内のみ)、Jリーグは大幅増額しても210億という水準。
●ともあれ、今後Jリーグは全面的にパフォーム・グループの放映権頼みであるので、先日紹介したスポーツ専門有料動画配信DAZNが日本で成功を収めてくれないと困ることになった。大丈夫か、DAZN。そもそもなんて読むのだ、これは。ダズン? ダズーン? えっ、ダゾーンなの? どっちにしても名前の語感からすると、華々しく成功を収めるっていうよりはズルッてコケてる雰囲気満載だが、Jリーグは未来をここに賭けた。放映権を支払うのがテレビ局ではなく、外国のネット配信サービスになったわけで、時代は案外あっさりと変わるものだなあ。

October 4, 2016

パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響&マツーエフ

●1日はNHKホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響。前半にプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番(デニス・マツーエフ)、後半にラフマニノフの交響曲第3番というロシア・プロ。プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番はこの作曲家の魅力がたっぷりと詰まった傑作で、グロテスクとリリシズムの融合という点で第3番を凌ぐ最強のコンチェルトだと思う。終楽章のクレイジーな盛り上がりがカッコよすぎる。マツーエフは強烈な打鍵で怪物的ヴィルトゥオジティを発揮。ピアノの筐体がギシギシと軋むかのような豪快さ。それでいて情感も豊か。アンコールにシベリウスの13の小品op76-2「練習曲」。客席の拍手が止まず、なんとまさかのもう一曲。マツーエフ編の「A列車で行こう」。どうやらこれはマツーエフ得意のアンコール曲の模様。
●後半は、期待通りの引き締まったサウンドによるラフマニノフ。ロマンに過剰に溺れず、筋肉質。第2楽章冒頭の弦楽器がとても美しい。で、いつものように弦は対向配置なのだが、この第2楽章、冒頭でひとしきり主題提示が終わった後、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの間で左右でさざ波のようなやり取りがある。対向配置が生み出すステレオ効果なんてのは録音ではともかく、現実のコンサートホールの客席ではおおむねファンタジーにすぎないと感じているんだけど、とはいえこの部分はステレオ効果を狙っているにちがいない。幻想的で効果抜群だもの。初演した1930年代のフィラデルフィア管弦楽団がどういう配置を採用していたのかは知らない。

October 3, 2016

読響2017/18年プログラム発表&シルヴァン・カンブルラン記者会見

読響&カンブルラン記者会見
●30日は池袋の東京芸術劇場で読響2017/18年シーズン・プログラム発表記者会見へ。就任8年目を迎える(もうそんなに?)常任指揮者、シルヴァン・カンブルランが登壇して来シーズンのプログラムが発表されたのだが、なんといっても目玉となるのは読響創立55周年を記念してのメシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式)の全曲日本初演(11月)。メシアンが1974年から83年まで8年余の年月をかけて完成させたという大作。変則7管編成の木管楽器や40近い打楽器、3台のオンド・マルトノ、10パートの合唱などすさまじく巨大な編成を要する作品で、演奏にあたっては総勢約240名が必要という。演奏時間は正味4時間以上、休憩を含めれば約5時間半というワーグナー級の長大さ。実演に接してこその作品だが、ついに日本初演されることに。
●「アッシジの聖フランチェスコ」の初演は1983年、小澤征爾指揮のパリ・オペラ座。日本では86年に小澤征爾指揮新日本フィルが第3、7、8景を演奏したのみ。海外に目を向ければ初演以後もこれだけの大作にしては上演頻度は少なくなく、むしろ2000年代には盛んに上演されているといってもいいくらい。そしてパリ・オペラ座やマドリッド王立歌劇場などで、たびたびこのオペラを指揮しているのがカンブルラン。「これまでに24回、この作品を指揮していますが、毎回、魔法のようだと感じます。この作品はおそれで始まって喜びに至るオペラです。6時間ほどある大作ですが、進むにつれて聴衆が作品にどんどん引き込まれていくのがわかります。一般的な聴衆にとってバリアのようなものはまったくないと断言できる。私の心の中で大切な位置を占める作品です」(カンブルラン)
●なお、今回の「アッシジの聖フランチェスコ」はびわ湖ホールでも演奏される。2017年11月19日と26日がサントリーホールで、その間の23日にびわ湖ホールというスケジュール。
●シーズン全体についてはカンブルランのほかに新首席客演指揮者のコルネリウス・マイスター、スクロヴァチェフスキ、テミルカーノフ他の指揮者陣、ギドン・クレーメル、イザベル・ファウスト、イェルク・ヴィトマン、ピーター・アースキン(ターネジのドラムス協奏曲を日本初演する)他のソリストが客演する。

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