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February 12, 2026

東京オペラシティアートギャラリー 「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」

東京オペラシティ アルフレド・ジャー
●現在オペラシティのコンサートホールが休館中なので、演奏会のついでにアートギャラリーに立ち寄るというわけにはいかない。が、「アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち」をぜひ見たかったので初台へ。アルフレド・ジャーはチリ出身で、ピノチェト独裁政権を逃れてアメリカに渡ったニューヨーク拠点のアーティスト。非常にメッセージ性の強い作品ばかりで、とりわけ社会の不均衡や政治的集団的な暴力を扱ったものが多い。
東京オペラシティ アルフレド・ジャー
●で、これは音楽ファンにも気になる作品だと思うのだが、「彼らにも考えがある」(2012)。手前の丸いオレンジ色は別の作品で(スマソ)、後ろのライトボックスに OTHER PEOPLE THINK と書かれているのが本作。これはジョン・ケージ生誕100年を記念して作られた作品で、ケージが15歳の頃にハリウッド・ボウルでのスピーキング・コンテストのために書いた演説文にちなんでいる。ケージの意図はともかくとして、この作品では「彼らにも考えがある(自分たちだけじゃなくて)」っていうニュアンスが込められている、らしい。文面からは別の受け止め方もありそうだが。
東京オペラシティ アルフレド・ジャー
●こちらは「ゴールド・イン・ザ・モーニング」と題されたシリーズの一作。これだけ見てもなんにもわからないが、ブラジル北東部セーラ・ペラーダで金鉱が見つかって、一獲千金を求めて大勢の人々がやってきた。粗末な道具で過酷な労働に勤しむ人々を、撮っている。自発的な労働であるはずだけど、労働者への条件は厳しく、そこには明白な搾取の構造がある、ということを言っている。そう聞くと、じゃあこれはアートなの、素直にジャーナリズムじゃないの、っていう疑問はわく。アートとして読み取ろうとすればいろんな解釈も可能であるにせよ。
東京オペラシティ アルフレド・ジャー
●日本を題材とした作品もふたつほどあった。これは「明日は明日の日が昇る」(2025)。ふつうの高さから見ると、床のライトボックスに日の丸があるのが見える。でも、近づいてのぞき込むと、上に星条旗があることに気づく。日米の非対称性がここに。ほかに「ヒロシマ、ヒロシマ」という大掛かりな作品も。
東京オペラシティ アルフレド・ジャー
●いちばんいいなと思ったのはこれ。「写真はとるのではない。つくるものだ」(2013)。これは展示の入り口に置かれていて、ポスターが積みあがっている。で、ぜんぶ見た後で、帰りに一枚持ち帰ることになっている(ちゃんと輪ゴムまで用意されている)。減った分は、またスタッフが補充して、立方体に近い形状が保たれるようになっているようだ。喜んで一枚もらって帰った。写真はとるのではなく、つくるもの。みんな、知っている。

February 10, 2026

Jリーグ百年構想リーグが開幕。マリノスは町田相手に自滅

●Jリーグが開幕。といっても、通常のリーグ戦ではない。8月からの秋春制移行にともなって、今年前半は短期決戦の変則的な「Jリーグ百年構想リーグ」を開くことになった。J1は東西に分けて、地域リーグとしてそれぞれでホームアンドアウェイの総当たりをして、その後、東西同順位のチーム同士で戦って最終順位を決定する。対戦相手が限られているため、あまりワクワクするものではないが、目を引くのは90分で決着がつかない場合はPK戦をするという点。90分で勝てば勝点3、PK戦で勝てば勝点2、PK戦で負けても勝点1がもらえる。初期Jリーグを思わせる懐かしい方式だ。
●現代フットボールでは、勝てば勝点3、引き分けなら勝点1がスタンダード。これは試合の価値が、引き分けでは低くなることを意味する。勝敗がつけばその試合の価値は勝点3だが、引き分けなら両者合わせて勝点2にしかならない。クラシックなサッカーでは勝ったら勝点2、引き分けなら勝点1とシンプルだったので、いかなる試合にも勝点2が割り振られ、全試合が等価だった。で、今回の百年構想リーグでは、引き分けた場合にPK戦の勝者に2、敗者に1が配分されるので、合計の勝点は3。クラシックなサッカーと同じで、引き分けても試合の価値は下がらないのだ。だから数理的には引き分け狙いの戦術の優位性が高まる。とくに個の力で劣るチームは、スコアレスドローを狙ってリスクの少ないサッカーをするのがお得だ。
●となると、つまらない試合が増えそうだが、そこはJリーグもしっかり考えているようで、この大会では降格がない。弱いチームが降格を恐れて引いて守る必要はないのだ。負けても降格しないのなら、おもしろいゲームをしてお客さんを呼んだほうが利益になるかもしれない。
●昨季、マリノスは終盤にボール非保持のサッカーに徹して、残留を勝ち取った。だが、大島監督は今季、アタッキングフットボールへの回帰を掲げている。開幕戦はホームで町田相手に自滅して2-3で敗北。ボール保持率は59%と高かったが、なにせ前半に自分たちのミスだけで3失点したのだから、どうにもならない。そもそもポステコグルー監督以降のアタッキングフットボールとは、個の力で相手を上回っていることが前提になっていた。今のマリノスは、町田との開幕ゲームでも明らかなように、個の力で劣勢なのだ。ただでさえ戦力が足りなかった昨季から植中朝日まで失ってしまった。この戦力でアタッキングフットボールなどやれば、どれだけ失点することか。
●だが、大島監督は圧倒的に正しい。だって、降格がないのだ。フットボールの愉悦を犠牲にして、昨季の終盤みたいなサッカーを続ける理由はひとつもない。3点獲られたのは悔しいが、2点獲れたのはよいこと。思う存分、ハイリスクなサッカーにチャレンジして、ファンを熱くしてほしい。

February 9, 2026

フィリップ・ジョルダン指揮NHK交響楽団のシューマン、ワーグナー

フィリップ・ジョルダン N響
●7日はNHKホールでフィリップ・ジョルダン指揮N響。パリ・オペラ座やウィーン国立歌劇場音楽監督を歴任してきたジョルダンがN響と初共演。お父さんのアルミン・ジョルダンはどっしりとした大柄な指揮者だったが、フィリップはすらりと長身痩躯。遠目にも見栄えがする。プログラムは前半がシューマンの交響曲第3番「ライン」、後半がワーグナーの楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「ブリュンヒルデの自己犠牲」(ソプラノ:タマラ・ウィルソン)。すなわちライン川プロ。
●シューマンは推進力のある演奏。細部から練り上げるというよりは、外枠から大きな音楽の流れを作り出す。圧巻は後半で、得意のワーグナーはさすがの名演。きびきびと音楽が進み、もっさり度ゼロ。その点はヤノフスキが振る「東京・春・音楽祭」のワーグナーとも共通するが、全体のカラーはちがっていて、格段に壮麗で、甘美でもある。タマラ・ウィルソンのソプラノはまろやかで温かい声。尻上がりに熱を帯び、NHKホールの巨大空間と大オーケストラを相手に堂々たるブリュンヒルデ。歌い終わった後、まだまだオーケストラの演奏が続いてクライマックスがやってくるわけだが、その間もブリュンヒルデになりきっている様子が劇場っぽくてよかった。ハープ6台は視覚的に壮観。
●曲が終わった後、NHKホールで完璧な静寂が保たれたのはすごいこと。なにせ人数が多いので。大喝采と盛大なブラボーが続いて、客席は今年いちばんの盛りあがり。ジョルダンのソロカーテンコール、さらにタマラ・ウィルソンといっしょにふたりでカーテンコール。

February 6, 2026

METライブビューイング リヒャルト・シュトラウス「アラベッラ」(オットー・シェンク演出)

●東劇でMETライブビューイング、リヒャルト・シュトラウス「アラベッラ」を観る。オットー・シェンクによる伝統的な演出。俊英ニコラス・カーターの指揮で、題名役はロール・デビューとなったレイチェル・ウィリス=ソレンセン、マンドリカにトマシュ・コニエチュニー、ズデンカにルイーズ・アルダー、マッテオにパヴォル・ブレスリック、ヴァルトナー伯爵にブリンドリー・シェラット。さすがのMETで充実の歌手陣。とくに印象的だったのはマンドリカのトマシュ・コニエチュニー。英雄的で高貴で、でも土の香りのする人物像を表現する。このオペラをマンドリカの物語として堪能。表から見るとアラベッラのロマンスだけど、裏から見ると田舎紳士ファンタジーなのだった。
●映像であれ実演であれ「アラベッラ」を観たのは久々だったので新鮮な気持ちで楽しんでしまった。音楽もテキストも超高密度。シュトラウスの音楽は「ばらの騎士」と同様に真に陶酔的で精緻。さすがに映画館の音響設備でそのすべてを再現することはできないとはいえ、METオーケストラの精妙なサウンドをたっぷり楽しめる。幕間のインタビュー映像で指揮のニコラス・カーターを推していた。あと、第1幕のヴィオラ・ソロを受けて、幕間インタビューに首席ヴィオラ奏者が出てきた。稀有な例。
●「ばらの騎士」を観ると、自分の心のなかにオックスも元帥夫人もいることに気づくが、「アラベッラ」の場合は自分のどこを探してもアラベッラもマンドリカもいない。そんな高貴な人物、いない。いるとしたら、ヴァルトナー伯爵かな。大事な話をしているのに、カードゲームに戻りたくてしょうがない、かと思えば決闘騒ぎを引き起こす。
●ズデンカは「ズボン役」と呼びたくなるが、男装をしているだけで本当は女性という設定なのだから、そうは呼べない。「半ズボン役」か。
●「アラベッラ」の台本は第1幕の入念な歩みと比べると、第2幕と第3幕はやや駆け足気味になっていると感じる。

February 5, 2026

ジェームズ・フェデック指揮読響のブルックナー

ジェームズ・フェデック 読響
●4日はサントリーホールでジェームズ・フェデック指揮読響。プログラムは細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」(諏訪内晶子)とブルックナーの交響曲第7番。当初の予定では前半が望月京のヴァイオリンとオーケストラのための新作(世界初演)で、指揮が鬼才マリオ・ヴェンツァーゴだったが、まず作曲家側の事情で曲が変更になり、その後ヴェンツァーゴの体調不良で指揮がジェームズ・フェデックに変わった。ぜんぜん知らない人だったが、フェデックはニューヨーク生まれの新鋭で、ブルックナーを積極的に指揮している模様。細川俊夫とブルックナーの両方を振れる代役を探すのはたいへんだったと思う。
●前半の細川俊夫「ゲネシス」は、ヴェロニカ・エーベルレの出産を祝って彼女とその息子への贈り物として書かれた作品なのだとか。タイトルから想起されるような原初の海、母なる海を思わせるゆるやかで予感に満ちた精緻な響きをオーケストラが作り出し、これに諏訪内晶子のソロが絡み合う。生命の息吹を連想させる確信のソロ。作曲者臨席。この曲、以前にも聴いたことがあると思ったが、N響のMusic Tomorrowだったかどうか。
●後半は奇をてらわないまっすぐなブルックナー。重厚さと抒情性のバランスがとれ、無理のない造形。第2楽章はシンバルで盛大なクライマックス。どこまでが指揮者の目指したものなのか、あるいは読響に刻まれたブルックナー演奏の伝統によるものなのかは判然としないわけだが、オーケストラは一丸となって集中度の高い演奏に。客席の反応は上々で、しっかりとした拍手が続いてフェデックのソロカーテンコールになった。
●曲が終わった後、拍手より先にブラボーの声が複数出た。曲はちゃんと終わっていたので、これをフライングとは言いづらいのだが、ほとんどの聴衆は余韻を味わおうと拍手を控えていたわけで、このあたりは価値観の違いか。なかなか難しい。いずれ、ブルックナーの演奏では能みたいに奏者が退場してから拍手をするという習慣が生まれるかもしれない。

February 4, 2026

三AI寄れば文殊の知恵

AIたちが議論中
●AIはよくまちがえる。日々便利に使ってはいるが、「必ずどこかにまちがいが含まれている」という前提で接する必要がある。自信満々でデタラメを並べてくることもしょっちゅうなので、大事な事柄にかんしては「今教えてくれたことが本当にそうなのか、信頼できる資料を探してチェックしてほしい」とか、「今書いてくれたコードだけど、エラーが出ないか、また、予期せぬ副作用が出ないかもう一度チェックしてほしい」といったように再確認させるようにしている。あるいは、別のAIに同じ問いを投げて、回答を比較する手もある。そういうときは、ChatGPT(またはアントンR)、Gemini、Claudeの3種類を使っている。
●なぜ3種類使うかといえば、多数決をとれるから。2対1に答えが分かれることはよくある。それで思い出すのが「新世紀エヴァンゲリオン」のMAGIシステムだ。エヴァのシステムは三重化されており、意見が分かれたときは三者で多数決をとる、といった設定だったと思う。AIが実用化されて現実がアニメの世界に追いついた、というと大げさだが、おそらく多くの人がワタシと同じことをやって、同じことを感じているはず。
●このような3体による多数決システムには「エヴァンゲリオン」の前にも先例があって、それがフィリップ・K・ディックの短篇「マイノリティ・リポート」(旧題「少数報告」)。スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で「マイノリティ・リポート」として映画化された。物語に登場するのはAIではなく、プレコグ(と呼ばれる予知能力者)。この世界では犯罪を予知するためにプレコグの夢が活用されており、プレコグが見た未来が2対1に分かれた場合は多数決がとられて、少数報告(マイノリティ・レポート)が破棄される仕組みになっている。でも、実はそちらの少数報告が本質を突いていたというストーリー(参照:映画「マイノリティ・リポート」)。少数者が一歩先まで見抜いていることもあるわけで、あまり多数決に頼るのも考えものか。

February 3, 2026

「言語化するための小説思考」(小川哲)

●「言語化するための小説思考」(小川哲著/講談社)がおもしろかった。「ゲームの王国」「地図と拳」「君のクイズ」などの人気作で知られる直木賞作家の著者が、小説を書くときになにを考えているかを言語化した一冊。といっても、小説の書き方を指南するのではなく、もっと根源的な部分、小説とはどういうものなのか、文章をいかに書くかというところまで突きつめて考え、言葉にしている。
●どこも刺激的なのだが、たとえば第7章は「『伏線』は存在しない」と題される。よく小説に対して「伏線回収が鮮やか」みたいな評価があるけど、著者は「伏線」という言葉を激しく嫌う。一般論として、伏線とは「その後の展開を暗示する描写」「意外な展開に対する違和感を減らすための描写」と定義される。しかしこれが無意味なのは、小説の骨格そのものが「その後の展開を暗示する描写」と「意外な展開に対する違和感を減らすための描写」で成立しているからだと指摘する。まったくその通りだと思うじゃないすか。でも、本当にびっくりしたのはその先で、

 僕は普段、プロットを作らずに小説を書いているのだが、プロットがないのに小説を書くことができるのは、「書いてしまった文章をいかにして伏線にするか」という倒錯した発想で物語を構築しているからにほかならない。

というくだり。そういえば、以前読んだ「君のクイズ」でも、書き出しの時点ではトリック(って言うのかな)が見つかっていなかったみたいな話を目にした記憶がある。
●それで思い出したけど、スティーヴン・キングが「ストーリーは由緒正しく、信頼に値する。プロットはいかがわしい」って書いていたっけ(→「書くことについて」スティーヴン・キング その2)。ストーリーは化石の発掘みたいに慎重に探し当てるものだけど、プロットは「優れた作家の最後の手段であり、凡庸な作家の最初のよりどころ」だって言うんすよね。おもしろくない? さらにキングは「なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。優れた小説はかならずストーリーに始まってテーマに終わる。テーマに始まってストーリーに行き着くことはまずない」って言ってるんだけど、これに近い内容のことが本書にも書かれていた。
●あと、金言だと思ったのは、以下の一文。小説だけでなく、あらゆる原稿に対して有益だと思う。

僕が生まれて初めて小説を書き上げたあと、最初にやった推敲は「自分のために存在している文章」をすべて削除することだった。
February 2, 2026

バッハ・コレギウム・ジャパン ベートーヴェンへの道 vol.1

●31日は鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンで「ベートーヴェンへの道 vol.1」。プログラムは前半がC.P.E.バッハのシンフォニア ト長調Wq.182-1、ベートーヴェンの交響曲第1番、後半がベートーヴェンの交響曲第2番。珍しく声楽なしのBCJ。コンサートマスターに寺神戸亮、第2ヴァイオリンのトップに白井圭、ホルンに福川伸陽、クラリネットにロレンツォ・コッポラ、ティンパニに菅原淳。名手たちがずらり。
●エマヌエル・バッハのシンフォニアは痛快。鈴木優人のチェンバロを中心に小編成のアンサンブルで小気味よく。ベートーヴェンの2曲の交響曲からは、作品本来が備える規格外のやんちゃぶりが伝わってくる。ピリオド楽器でベートーヴェンを聴く機会はなかなか貴重なのだが、やはり表現のコントラストの大きさを感じる。物理的なダイナミクスは小さいはずなのに、感覚的にはむしろ逆に感じるところがあるのが不思議。荒々しい部分としなやかな部分、透明感のある響きとざらりとした粗い質感の対照、さらにはテンポや音色など至るところで強烈なコントラストが仕掛けられていて、次から次へと大小さまざまなイベントが発生する。自分が当時の聴衆だったら、初めて聴いてこれを味わえたか、まったく自信がない。交響曲第1番の冒頭からして「途中から始まってる」感が半端ない。とくに美しいと思ったのは交響曲第2番の第2楽章。この楽章の目的地が定まらないまま漂泊するような雰囲気が好き。
●交響曲第2番の終楽章で熱いクライマックスを築いた後、カーテンコールがあり、アンコールで同楽章の後半をもう一度。こういった本来のアンコール、つまり本編の一部をもう一度演奏するのは楽しい。ぐっとはじけた自由な指揮ぶりはアンコールならでは。
●東京オペラシティが休館中のため会場がサントリーホールだったが、9月のシリーズvol.2はオペラシティに戻る。次は交響曲第3番「英雄」とケルビーニのレクイエム ハ短調。

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制作者

飯尾洋一(Yoichi Iio)

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