●26日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮N響。プログラムはマーラーの交響曲第3番。N響はこの後、アムステルダムのマーラー・フェスティバル2025への出演を含む欧州6都市を巡るツアーに出発する。ツアーの演目のひとつがこのプログラム。その関係で、5月定期のAプロが4月中に前倒しされている。ロイヤル・コンセルトヘボウ、ベルリン・フィル、シカゴ交響楽団など錚々たるオーケストラが招かれるフェスティバルに出演するとあって、入念な準備と並ならぬ気迫がみなぎった演奏。コンサートマスターをはじめ、多くのパートで首席奏者がそろい踏みの豪華布陣。第1楽章からひりひりするような緊張感が伝わってきた。磨き上げられている。
●ルイージの造形はあらゆる角度から光で照らしたような明快でポジティブなマーラー。アイロニーやユーモア、グロテスクさといった要素は薄めで、壮麗な音響建築を仰ぎ見るといった趣。第1楽章は途中まで抑制的に感じたが、終盤ですさまじい追い込み。オレシア・ペトロヴァのメゾ・ソプラノ、東京オペラシンガーズの女声合唱、NHK東京児童合唱団の声楽陣は万全。児童合唱の「ビムバム」が始まるとそれだけでウルッと来る。終楽章は端正に始まり、進むにつれて白熱して壮大なクライマックスを築いた。曲が終わると完全な沈黙、その後は大喝采。楽員退出後、ルイージとコンサートマスター陣(長原幸太、郷古廉)がともに再登場してカーテンコール。客席も壮行演奏会といった雰囲気。
●1月から臨時営業されていたNHKホールのカフェコーナーが、継続営業することに。この日は休憩なしのプログラムなので開演前のみの営業で、大盛況だった。自分はザッハリッヒに自販機派。ガチャゴン。
ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のマーラー
最近の没ネタ集
●N響のベルリオーズ「イタリアのハロルド」でハロルドになり切って舞台をさまよい歩いたアントワーヌ・タメスティだが、この趣向を最初に披露するときはいろんなテストをしたと思う。舞台の後方まで移動しても客席に音が届くのかとか、狭すぎるところを歩いて他の奏者に接触しないかとか、さまざまな懸念があったにちがいない。タメスティは自分がやりたいことを、事前に指揮者とオーケストラにきちんと説明したはず。そして、リハーサルで試行した結果、これならうまくいくと納得した。試すてぃガッテン。
●レスピーギのローマ三部作といえば「ローマの松」「ローマの竹」「ローマの梅」。「ローマの松」を選ぶと豪勢なバンダが付いてくる。「ローマの梅」だと弦楽四重奏くらい。
●音楽の炒め物(AI画伯Grok 3さん作)。
低音デュオ第17回演奏会 ~低音のカタログ~
●23日は杉並公会堂小ホールで低音デュオ第17回演奏会~低音のカタログ~。松平敬(バリトン、声)と橋本晋哉(チューバ、セルパン)による低音デュオで、プログラムは前半に福井とも子 doublet IV(2019)、川崎真由子「低い音の生きもの」(2023/25改訂初演)、山田奈直「内裏玉」(2025 委嘱初演)、後半に安野太郎「鏡の中」(2025 委嘱初演)、川上統 組曲「雲丹図録」(2025 委嘱初演)、野村誠「どすこい!シュトックハウゼン」(2021)。川崎真由子作品は初演時に聴いているが、改訂初演とされていた。
●動植物に由来する作品が多い。「低い音の生きもの」では声とチューバがインドサイ、コアラ、ダチョウなど低い音の生きものを描き、「内裏玉」とはサボテンの一種らしく、「雲丹図録」ではなんと全13曲で11種類ものウニを表現する。これら動植物に加えて音楽家(シュトックハウゼン)も加わるとなれば、これはさながらポストモダンの「動物の謝肉祭」。全6曲、いずれも趣向に富み、すべてを楽しんだ。印象的だったのは山田奈直「内裏玉」で、チューバに風船やホース(?)を装着し、ふたりが協力プレイする。痛快。安野太郎「鏡の中」はワレリー・ブリューソフの同名短篇を題材に、バリトンとセルパンが鏡に向き合うようにして立つ。朗読による言葉の要素と断片的な歌の要素の交替、そして声の電気的な変調から幻想的な世界を作り出す。この曲がこの日の「白鳥」か。川上統「雲丹図録」は未知の生物群のイメージを喚起させる。自分は現実のウニの種別をまったく識別できないので。曲調からすばしっこく動き回るウニすら想像する。
●桁違いのインパクトをもたらすのは野村誠「どすこい!シュトックハウゼン」。これはシュトックハウゼンが相撲について語った映像が元ネタになっている。シュトックハウゼンが四股を踏んでみせたりするのだが、その動作や語りが見事に作品化されている。事前に映像を見ておいて本当によかったと思える圧倒的なパフォーマンスで、思わず自分も四股を踏みたくなった。名作と呼ぶほかない。
JFL 横河武蔵野FC対FCマルヤス岡崎、J1最下位のマリノス
●久々にサッカーの話題をふたつ。といっても、まったく戦績が振るわず、どちらのチームも茨の道を歩んでいるのだが。
●まずは19日、武蔵野陸上競技場でJFLの横河武蔵野FC対FCマルヤス岡崎を観戦。JFL、つまりJ1、J2、J3の次のカテゴリーで、日本の4部リーグ。かねてより応援してきた横河武蔵野FCだが、近年は迷走しており、東京武蔵野シティFC、東京武蔵野ユナイテッドFCと名称を変更した挙句、また横河武蔵野FCに戻った。詳しい事情は知らないが、自分の理解としては文京区の下のカテゴリーのクラブに飲み込まれかけたが、先方に利がないことがわかって、提携が解消された。もともと無理のある話だとは思っていた。結果として、このクラブはJリーグを目指すのではなく、地域密着型スポーツクラブに留まることに。というか、戦力ダウンが著しく、Jリーグどころか今はJFLに残留することが目標になっている。いったんJFLから落ちると、戻るのは至難。がんばってほしい。
●と、願いながら観戦したマルヤス岡崎戦だが、前半19分、右サイドのクロスから岡崎の原耕太郎がヘディングで強烈なシュート、武蔵野のキーパー末次敦貴がいったんはボールを弾くも、そのまま原に押し込まれて失点。これが決勝点となって、0対1で負けてしまった。武蔵野は終盤、ゴール前に早めにボールを放り込むことでチャンスをいくつか作ったが、一歩及ばず。トップの田口光樹が奮闘。ゲームを組み立てるというスタイルではなく、有効な攻めの形が乏しいので、先に失点すると苦しい。もう少しカウンターでチャンスを作れれば、とは思うのだが。観客数は509名。
●一方、J1のマリノスは踏んだり蹴ったりで、現在J1最下位。Jリーグのオリジナル10でマリノスと鹿島のみがこれまで降格を免れてきたのだが、ついに今季は降格圏に沈んでいる。これも新監督のスティーブ・ホランド(解任済み)がチームを壊したからで、アタッキングフットボールを放棄して守備を立て直すはずが、攻撃力が極端に減ったのに守備もパッとしないままという、ナンセンスな事態に陥ってしまった。トップチームの監督経験のない人を呼んでチームがガタガタになるという、先シーズンのハリー・キューウェル元監督と同じ轍を踏んでしまった。いくらイングランド代表やチェルシーでアシスタントコーチとして実績を積んでいても、監督をするとなればまったく話は別で、しかも異国の地ではなにひとつ手腕を発揮できなかった。選手交代の遅さ、決断力のなさを見ても感じたが、「助言する立場」と「決定する立場」では背負う責任が違うということなのだろう。ひとまずヘッドコーチだったパトリック・キスノーボが暫定監督を務めているが、早く実績のある人を呼んでこないと、来季はJ2で戦うことになる。Jリーグを知悉する人がいいんじゃないかな。
佐渡裕指揮新日本フィル、大竹しのぶ、高野百合絵のバーンスタイン「カディッシュ」
●20日はサントリーホールで佐渡裕指揮新日本フィル。恩師バーンスタインにちなんだプログラムで、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、バーンスタインの「ミサ」からの3つのメディテーション(チェロ:櫃本瑠音)、バーンスタインの交響曲第3番「カディッシュ」(朗読:大竹しのぶ、ソプラノ:高野百合絵)が演奏された。「カディッシュ」の合唱は晋友会合唱団と東京少年少女合唱隊。「レオノーレ」序曲第3番と「カディッシュ」は、1985年に来日したバーンスタインが広島平和コンサートで指揮した曲目。
●ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番は重心低めで雄渾。佐渡裕が音楽監督就任以降取り組んできた「ウィーン・ライン」の成果を感じる。かつてのアルミンク時代とはまた違った方向性の剛健なベートーヴェン。「ミサ」からの3つのメディテーションでは櫃本瑠音が集中度の高いソロを披露。ソリスト・アンコールにマーク・サマーの「ジュリー・オー」。
●白眉はやはりバーンスタイン「カディッシュ」。生前はスター指揮者として圧倒的な輝きを放っていたバーンスタインだが、没後35年を迎えた今、以前には予想もできなかったほど作曲家としての存在感が増しており、その管弦楽作品は20世紀後半のアメリカ音楽としてレパートリー化しつつあると感じる(逆に指揮者だったことを知らない人がだんだん増えているのでは)。今回の「カディッシュ」では松岡和子訳による日本語テキストを大竹しのぶが朗読。字幕もあるのだが、やはり日本語で朗読されるとテキストの重みがぜんぜん違ってくる。日頃、音楽ファンとしてごく当たり前にミサ曲などキリスト教音楽を宗教的文脈から切り離して聴いているわけだが、このユダヤ教音楽においても聴き方は変わらない。
●が、ひと味違うのは、この曲が神の礼賛にまったく留まっていないところで、むしろ人間が神を疑い、神を慰めるという点が現代的。神に向かって「私を信じなさい」と語り、最後は神と人が「お互いを創りなおそう」と呼びかける。これは「キャンディード」のラストシーンと通じるものがあるんじゃないかな。人と神との再構築宣言。「神が人を創った」と「人が神を創った」の立場が合一を果たす。終楽章で合唱によるフーガがくりひろげられる声楽入り交響曲という点では、ベートーヴェンの「第九」も連想する。
東京・春・音楽祭「こうもり」ノット指揮東京交響楽団
●18日は東京文化会館で東京・春・音楽祭のヨハン・シュトラウス2世「こうもり」(演奏会形式)。なんと、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団が登場。意外。アイゼンシュタインにアドリアン・エレート、ロザリンデにアニタ・ハルティヒ(当初予定から変更)、アデーレにソフィア・フォミナ、アルフレートにドヴレト・ヌルゲルディエフ、ファルケ博士にマルクス・アイヒェ、オルロフスキー公爵にアンジェラ・ブラウアー。充実の歌手陣。芸達者がそろった。アニタ・ハルティヒのロザリンデがすばらしい。アドリアン・エレートのアイゼンシュタインも笑える。マルクス・アイヒェ、この音楽祭ではおなじみだけど、シリアスな役でもコミカルな役でも本当にうまい。演奏会形式とはいっても、舞台にテーブルや椅子などが置かれ、衣裳も着用して演技するスタイルで、ほとんど舞台上演と変わらない。合唱は東京オペラシンガーズ。
●「こうもり」に限らずオペレッタ全般が自分はずっと苦手で避けてきたが、この公演に関してはノット指揮東響なのでぜひとも聴きたいと思ったし、期待通りに大いに楽しめた。劇場の練れた職人芸とはひと味違ったフレッシュな音楽。
●「こうもり」のストーリーって、とことん「陽キャ」の世界を描いていて、異世界ものみたいな感じなんだけど、もしあそこに自分が転生するとしたら、アイゼンシュタインになじられる吃音弁護士になると思う。
●5日間とか8日間の禁固刑って、少し不思議な刑だなって思うんだけど、たぶん、当時のウィーンでは普通にあり得たみたいで、比較的軽微な罪に対して数日間の短期拘禁が命じられたっぽい(AI調べなので話半分で)。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団のストラヴィンスキー、ブリテン、プロコフィエフ
●17日はサントリーホールで、ふたたびパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響。プログラムは前半にストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)、後半にブリテンのピアノ協奏曲(ベンジャミン・グローヴナー)、プロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」。前半から「ペトルーシュカ」を聴けるというサービス満点プログラム。後半にピアノ協奏曲があって、舞台転換後に別の曲を演奏するという流れは珍しい。曲順を丸ごとひっくり返しても成立しそうなプログラムだけど、それだと前半が長すぎるのと、「ペトルーシュカ」で静かに終わるのが難点か。
●「ペトルーシュカ」はカラフル。グロテスクなストーリーを伝える語り口の巧みさがありつつ、オーケストラの機能美も追求され、すこぶる痛快。ピアノに松田華音。先日のプロコフィエフと同様、ピアノを指揮者と向き合う形で配置。この形だと協奏曲的性格は控えめで、オーケストラと一体になる。
●ブリテンはこの日最大のお楽しみ。ライブで聴くのは2回目、かな。なかなか聴けない。1938年、25歳の年に書かれたピアノ協奏曲は、まだ真のブリテン誕生以前というか、珍しく乾いたモダニズムがあって、むしろ気軽に聴ける面がある。ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェル(第2楽章)、バルトーク(第3楽章)を少し連想。おもしろいのは楽章構成で、協奏曲ながら4楽章で書かれていて、2楽章のワルツを舞曲楽章、3楽章の即興曲を緩徐楽章とみなせば交響曲風の構成なのだが、一方で第1楽章のトッカータにプレリュード的な性格があるので、プレリュード、ワルツ、即興曲、マーチという20世紀版古典組曲にも見える。グローヴナーのソロは達者。すっかり作品を手の内に収めているようで、きらびやかで軽快。ソリストアンコールはなく、おしまいは「3つのオレンジへの恋」。切れ味鋭く、豪快。ブリテンのピアノ協奏曲に続いて、この曲にもマーチが出てくるのだった。
オクサーナ・リーニフ指揮読響のベートーヴェン他
●16日はサントリーホールでオクサーナ・リーニフ指揮読響。プログラムはブラームスのピアノ協奏曲第1番(ルーカス・ゲニューシャス)とベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。ゲストコンサートマスターに小川響子。大躍進中のウクライナの指揮者リーニフは小柄で華奢だが、指揮ぶりはきわめてダイナミック。はっきりした動作で、鋭角的な棒の振りはショルティを連想させる。前半、ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、ライブではいつも難物だと感じる曲。ゲニューシャスはなんどかラ・フォル・ジュルネで聴いた人だが久々。テクニシャンでパワーもある人だと思うが、力むことなくスマート。オーケストラは重厚ではなく、抑制的。ソリスト・アンコールにシューベルトのメヌエット嬰ハ短調D600。かなり遅いテンポ設定で、左手のスタッカートを強調して弾くので、異様な雰囲気があっておもしろかった。舞曲ではなく、漂泊するかのよう。
●後半の「運命」は苛烈なベートーヴェン。乾いた鋭い響きで直線的にぐいぐいと進む。猛進する第1楽章だが、オーボエのカデンツァだけは思い切りゆっくり朗々と歌う。第1楽章のおしまいの部分は、いったん音量をがくんと落としてからクレッシェンドして閉じる「飛び出す運命」仕様。仕掛けは多い。終楽章はリピートありで、冒頭に戻る部分はすこぶるパワフル。畳みかけるように一気呵成に駆け抜ける。息を止めて全力疾走したみたいな「運命」だった。曲が終わると盛大な喝采があった一方、意外と拍手はあっさりと収まった感も。