
●15日は東京国立博物館の法隆寺宝物館エントランスホールで「東京・春・音楽祭」のミュージアム・コンサート「東博でバッハ vol.81 山澤慧(チェロ)」。プログラムが魅力的で、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調、西村朗の「チェロのためのオード」、バッハの無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調、休憩をはさんで黛敏郎の「BUNRAKU」、バッハの無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調。まるでオペラシティの「B→C」みたい。あるいは「C→B」というべきか。アンコール前に奏者本人のトークにもあったように、西村作品と黛作品の選択は東博という会場に合わせたもの。場にふさわしく、音楽的な流れという点からもコントラストが効果的。残響がとても多い会場なので、なにを弾いても朗々と響き渡る。バッハは颯爽としてのびやか。停滞することなく、前へ前へと進む。西村朗「チェロのためのオード」は91年に堤剛が委嘱した作品。前夜に堤剛による矢代秋雄のチェロ協奏曲を聴いたばかりだが、ここでもレジェンドの存在感。この曲からほとんど切れ目なく、バッハにすっと入る瞬間がいい。圧巻は黛敏郎「BUNRAKU」。力強く雄弁。着想源の文楽、太棹三味線がチェロ独奏曲として完全に昇華された名曲。作品が古典として受け継がれていることを改めて実感。

●「東博でバッハ」の会場は、この法隆寺宝物館エントランスホールと平成館ラウンジの2か所が用いられている。響きがたっぷりとしているのはこちら。エントランスの入り口側にステージを置いて、奥の階段の方向に向かって椅子が並べられるのだが、天井も高く、反響も十二分にあって、まるでシューボックス型のコンサートホールのよう。ここでバッハを聴く醍醐味は、われわれが音楽を聴くすぐそばで、たくさんの飛鳥時代の観音菩薩立像や如来立像もバッハも聴いているというシチュエーションにある。7世紀前後の菩薩像から見れば、18世紀のバッハは遠い未来の音楽。
東京・春・音楽祭 東博でバッハ vol.81 山澤慧(チェロ)
沖澤のどか指揮京都市交響楽団のシュトラウス「家庭交響曲」他
●14日はサントリーホールで沖澤のどか指揮京都市交響楽団。京響70周年&サントリーホール40周年記念公演。プログラムはリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、矢代秋雄のチェロ協奏曲(堤剛)、シュトラウスの「家庭交響曲」。矢代秋雄のチェロ協奏曲の初演は1960年。N響の世界一周演奏旅行のための作品であり、その初演者が当時18歳の堤剛。それから66年もの時を経て、現在サントリーホールの館長も務める堤剛が同曲を演奏するという偉業。まさにレジェンド。内省的なモノローグ風の独奏ではじまり、晦渋な楽想が続くが、後半は管弦楽が「春の祭典」ばりに荒ぶる妖しい祝祭。嵐が去っても独奏チェロはひたむきに内面に向き合うかのように独白を続ける。おしまいの余韻が味わい深い。渾身のソロ。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンド。
●沖澤のどか指揮のシュトラウス「ドン・ファン」はサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏があったと思うけど、今回は京響。コンサートマスターに特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣、ヴィオラにはソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積と両翼に重鎮が構えて、サイトウ・キネンを連想させる布陣。冒頭がビシッと決まって、勢いがあり、なおかつバランスのとれた端然とした「ドン・ファン」。「家庭交響曲」も同様に描写性や陶酔性に過度に傾かず、ていねいで明快整然。管楽器のソロは巧みで名手ぞろい。「家庭」という題材、素直に考えれば三重奏とか四重奏くらいのスケール感なのに、これだけの大編成大音響で演奏至難な大作を創造するシュトラウスの破格の構想力にあらためて感嘆する。フィナーレは壮大。客席は盛大にわきあがった。ファンの熱さを感じる。
国立西洋美術館 チュルリョーニス展 内なる星図

●先日、東京春祭ディスカヴァリー・シリーズでリトアニアのチュルリョーニス(1875~1911)の曲を聴いたが、続いて国立西洋美術館の「チュルリョーニス展 内なる星図」へ。作曲家としても画家としても名を残した稀有な芸術家のふたつの顔を知る貴重な機会。上は今回の展覧会のキービジュアルとしても使われている「祭壇」(1909)。今回の展示のなかで、これが典型的な作風かといえばそうでもないと思うのだが、たしかに際立った一作。ピラミッドみたいな形状の巨大な祭壇で、てっぺんから煙が立ち昇る。コンクラーベみたい。この作品もそうだが、全般に神秘主義的傾向が強い。

●作曲家だけあって、音楽形式にちなんだ作品も多い。これは「第6ソナタ(星のソナタ):アレグロ」(1908)。本来4楽章の作品として構想されたが、アレグロとアンダンテの2点のみが描かれたという。こういった「ソナタ」だったり「前奏曲とフーガ」といった題を添えた絵がいくつもあるのだが、趣向に興味が持てるかというとそこは微妙なところ。ただ、これが連作の最初に配置されるアレグロ楽章だと言われれば、まあ、納得はできる。リズミカルで活発で、なにかが始まっている。ほとんどの作品はこういった彩度の低い色調。

●こちらは「第5ソナタ(海のソナタ):フィナーレ」(1908)。海がモチーフになっているのだが、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を参照しているのだとか。実は作曲家チュルリョーニスには交響詩「海」(1907)という作品もある。この曲は録音がいくつもあるので簡単に聴けるのだが(たとえばBISのモデスタス・ピトレナス指揮リトアニア国立交響楽団など)、会場でループで流される冒頭部分が、一瞬、ドビュッシーの「海」みたいでギクッとする。ただ、全曲を聴くとだいぶ違った手触りで、思い切り後期ロマン派のスタイル。こんなところにもワーグナーの影響が。

●これは「レックス(王)」(1909)。晩年の大作、といっても35歳で早世しているのだが。モチーフは地球、天上、城、太陽、星々、彗星など。世界を統べる王とその影ということなのか。これも神秘主義的。
カーチュン・ウォン指揮日本フィルのベートーヴェン「第九」マーラー版

●10日はサントリーホールでカーチュン・ウォン指揮日本フィル。プログラムは一曲のみ、ベートーヴェンの交響曲第9番。といってもふつうの「第九」ではなく、マーラー修正版の「第九」。すぐれた指揮者でもあったマーラーが当時の楽器の機能性や聴取環境に応じて「第九」のスコアに手を入れたもので、楽器編成は倍管、テューバ入りに拡大。ホルンは8本もある。大きく拡大されたメガ進化版「第九」。弦は16型、コントラバスは9だったと思う。ソプラノは森谷真理、メゾソプラノは林美智子、テノールは村上公太、バリトンは大西宇宙。さすがに独唱陣は増えていない。合唱は晋友会合唱団。130人くらいの大合唱。ステージ上の人が多く、視覚的にもベートーヴェンを聴くという雰囲気ではなく、マーラーを聴くかのよう。
●20世紀ロマンティック・ベートーヴェンが始まるのかと思いきや、いきなり冒頭のヴァイオリンがノン・ヴィブラート。マーラー時代のピリオド・アプローチみたいな発想もあるんだろうか。響きは分厚くパワフルで、金管楽器の比重高め。第1楽章で4人のクラリネットがベルアップするのが効果抜群。ところどころ独特のアーティキュレーションも。ただ、編成や編曲の違い以上に、カーチュンの指揮がもたらす違いを感じる。骨太の造形による筆圧の強い、たくましいベートーヴェン。
●今は原典主義の時代だけど、マーラーのように「ベートーヴェン時代の楽器ではできなかったことも今の楽器ならできるから、楽譜を修正しよう」という考え方のほうが発想としては自然だとは思う。時代とともに機能性が高まっているのだから上位互換と考えるのは、テクノロジーの世界ではふつうのこと。ドラクエだってリメイクしたら新しいハードウェアに合わせて旧作を修正するわけで、「ドラクエ2という作品がもたらすオーセンティックな緊張感を体験するためには、セーブデータをメモリに保存するのではなく『復活の呪文』方式にしてユーザーに慎重に書き写させるべき」というピリオド・アプローチは耳にしない。ただ、今の時代にベートーヴェンが生きていたら、きっと「第九」でシンセやエレキギターも使ってたはず、なんならボカロも絶対使うだろう、みたいなことを言い出すと際限がなくなる。なぜ音楽の場合は原典を尊重することが直感的に好ましいと思えるのか、答えは簡単ではない気がする。
イム・ユンチャン ピアノ・リサイタル

●8日は東京芸術劇場でイム・ユンチャンのピアノ・リサイタル。当初発表のプログラムは「幻想曲」をキーワードにしたショパン、シューベルト、シューマンからなるプログラムだったが、全面的に変更になり、前半にシューベルトのピアノ・ソナタ第17番(ガスタイナー)、後半にスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番、第3番、第4番。珍しい選曲。シューベルトとスクリャービン、少し不思議な組合せだが、遠くかけ離れているようで、どこかでつながっているのかも? こじらせ系とか。
●イム・ユンチャン、髪型がかわってポスターとはずいぶん違った風貌で登場。猫背気味でそそくさと登場し、脇目もふらずに鍵盤に向かう。閉じた雰囲気だが、いざ鍵盤に向かえば鬼神のようなテクニック。後半のスクリャービンが強烈。ソナタ第2番、第3番、第4番をまるでひとつの大曲のように、ほぼつなげて弾く。弾きたいものを思い切り弾いたといった様子で、じわじわと熱を帯びながら大爆発へと至るスクリャービンの暗黒祭。噴出するパッションは今だからこそできる音楽か。タッチは強靭だが、響きはくっきり輝かしい。
●客席は盛大な大喝采。前半のシューベルトの終わりから、ワーッと歓声があがっていたのだが、後半はさらに盛り上がっていた。即座に立ち上がるスタンディングオベーションなど、ふだんの演奏会とはだいぶ違った雰囲気。カーテンコールでは動画を撮っているお客さん多数。オペラグラス持参の方も。新時代のスターだ。アンコールにラフマニノフ「ヴォカリーズ」。
東京・春・音楽祭 ワーグナー「さまよえるオランダ人」演奏会形式

●7日は東京文化会館で「東京・春・音楽祭」のワーグナー「さまよえるオランダ人」演奏会形式。アレクサンダー・ソディ指揮N響。近年、ワーグナーシリーズといえばヤノフスキだったが、今回はソディ。歌手陣はカミラ・ニールンドのゼンタ、ミヒャエル・クプファー=ラデツキーのオランダ人、タレク・ナズミのダーラント、オッカ・フォン・デア・ダメラウのマリー、トーマス・エベンシュタインの舵手。合唱は東京オペラシンガーズ。休憩なしの上演方式。ゼンタのニールンドが絶唱。ダイナミクスの幅が史上最大レベルで、強靭さが最強に強まっていた(←強を一文で3回使うテスト)。演技なしの純然たる演奏会形式ということも手伝って、ゼンタが何物にも動じない超然としたキャラクターに思えてくる。人間的な苦悩を抱えたオランダ人よりよほど超越的。
●ソディとN響のコンビは期待以上。なにしろこれまでがヤノフスキの鉄壁のアンサンブルによる緊密なワーグナーだったので、それに比べると開放的でダイナミック。テンポが速く音楽が停滞しない点は同じだけど、勢いがあり、ここぞというところでエネルギーが噴出する。とくに第3幕はスペクタクル。合唱はパワフル。自分はなじみがなかったのだが、序曲と第3幕のおしまいは初稿が用いられていたそうで、第3幕の終わり方は唐突な感じ。
●休憩なしで2時間強。終盤、退席する人の姿がちらほら。客席の多くは年配男性なので、しかたがない。
●オランダ人には名前がない。本当はあるはずだけど、オペラでは一度も呼ばれない。これは名乗ることができない騎士ローエングリンと対になっていると思う。
東京芸術劇場新芸術監督 岡田利規(舞台芸術部門)&山田和樹(音楽部門)就任記者発表会

●1日は東京芸術劇場で新芸術監督の就任記者発表会。今年度から芸術監督は舞台芸術部門の岡田利規と音楽部門の山田和樹にふたり体制になる。登壇者は岡田利規、モナコからオンライン参加の山田和樹、東京芸術劇場の鈴木順子副館長。少し驚いたのは会場が地下1階のロワー広場だったこと。つまり、地下鉄の池袋駅から芸劇に行く際に通る地下のオープンスペース。衝立くらいは置くのかなと思ったら、なにもなくて、通りすがりの人も見聞きできる完全にオープンな環境で行われた。開かれた劇場を目指す姿勢を示したものと理解。
●舞台芸術部門の岡田利規さんは率直な語り口が印象的。まずは「芸術の力を疑ってかかることを基本姿勢としたい。それは芸術の力を信じているから」という逆説で話をはじめ、「公共による芸術の実践は、現実に対する応答でなければならない」「現実に対して舞台芸術で応答するというコンセプトを、どれだけ明確に実践できるのか。この課題を自分自身に対して課したい」と問題意識を表明しつつも、それが容易に達成できるテーマではないことを認める。問題を簡単な話に落とし込もうとしないところがいいなと思った。今、音楽界でも世界的に公的支援が縮小する方向にあり、社会のなかで音楽家がどういう役割を果たせるのかというテーマについて語られる機会は増えているとは思うんだけど、「現実に対する応答」として音楽芸術が語られる機会はとても少ないと感じるので、その意味では刺激的でもあった。
●さらに、こういう場では珍しい発言だけど、「職員の過酷な労働環境を改善したい」と明言。現場の職員とのコミュニケーションを重視し、すでに職員ひとりひとりと面談をしたのだとか。このあたりは現場で働く人々にとっては心強いことだと思う。
●音楽部門の山田和樹さんは、「音楽監督になっていちばん嬉しいのは、岡田さんといっしょに仕事をできること」。まだ詳細は発表されていないが、10月には岡田利規×山田和樹のコラボレーション企画も予定されている。岡田さんの労働改善環境の話を受けて、「私は逆で、もっと働いてほしい。人と金には限りがある。錬金術的な発想、アイディアが必要」と答えていたのも「らしい」ところ。もちろん、これは労働環境はどうでもいいという話ではなく、バーミンガム市交響楽団で予算がカットされて苦境に陥った自身の体験に基づいて、これからは従来にないような発想が求められるということを強調したかったのだろう。
●山田和樹さんも「社会に自分たちの存在意義を証明していかなければならない時代になった」と語り、「交響都市計画」というシリーズ企画を掲げる。「交響は英語にするとシンフォニックだけど、違うものを結びつけるという意味で、ハーモニーと訳したい」。その目玉企画が5月の水野修孝「交響的変容」。伝説的な超大作をよみがえらせる。
●岡田利規芸術監督就任記念公演として、「映画を撮りたいゾンビの演劇」が挙がっていた。この作品について自分はなにひとつ知らいないのだが、かねてよりゾンビ禍について探求してきた者としては、不定期連載「ゾンビと私」のためにも観ておくべきだろうか?
アンナ・プロハスカ with ジョヴァンニ・アントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコ

●4日はTOPPANホールでソプラノのアンナ・プロハスカとジョヴァンニ・アントニーニ(指揮とリコーダー)&イル・ジャルディーノ・アルモニコ。「蛇と炎」の副題が添えられていて、以前にリリースされた同コンビによる録音と同じ趣旨の選曲。バロック・オペラにおけるヒロイン役のアリアを中心としつつ、さまざまな楽曲が集められた凝った構成になっている。長いけど記録のためにもプログラムを書いておくと、パーセルの「ディドとエネアス」より序曲と「ああ、ベリンダ、私は苦悩に押しつぶされそう」、グラウプナーの「カルタゴの女王ディド」より「流れる水のせせらぎよ」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「愛したくなどない」、ロックの「テンペスト」組曲よりガリアード、リルク、カーテン・チューン、カストロヴィッラーリの「クレオパトラ」より「さらば王国よ、王位よ」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「私が望めば」、パーセルの「妖精の女王」よりシャコンヌ「中国の男女の踊り」、グラウプナーの「カルタゴの女王ディド」より「空はずしりと雷をたたえている……裏切りの愛の神は」「嵐にかき乱されて」、サンマルティーニのリコーダー協奏曲へ長調、ハッセの「見捨てられたディドーネ」より「嵐はもう始まっている」、ヘンデルの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「何ということ、神よ!……あなたの憐れみがなければ」、カステッロの4声のソナタ第15番、カヴァッリの「ディドーネ」より「誇り高きジェトゥーリの王よ」、ハッセの「マルカントニオとクレオパトラ」より「死の凄まじい形相に」、ロッシの「ルイージ氏のパッサカリア」、パーセルの「ディドとエネアス」より「この山は狩りの女神のお気に入り」「べリンダ、手を……私が地に伏すとき」。ふー、曲目一覧だけで560字あるから、紙媒体だったら載せられない!
●いろんな作品があるけど、中心となっているのはカルタゴの女王ディドとエジプトの女王クレオパトラ。つまり自ら炎に飛び込んで命を絶ったディドと、毒蛇に己を噛ませて死んだクレオパトラを合わせて「蛇と炎」セット。アンナ・プロハスカによる「女王様の七変化」ショーといった趣で、嘆いたり怒ったり誇ったりする。プロハスカは女王の貫録、強靭でもあり可憐でもある。さらにアントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコは鮮烈。キレッキレとヌルヌルの両極を自在に表現できて機動性抜群。コントラストをマックスに振った猛烈な感情表現。プロハスカが女王様なら、アントニーニは王子様……と呼ぶのは無理があるかもしれないが、そうたとえたくなるほどのカッコよさ。リコーダーだけではなくトラヴェルソも披露してくれて、縦笛でも横笛でも暴れ回るのは文字通りの縦横無尽だなと思った。サンマルティーニのリコーダー協奏曲がすごい。リコーダーでこんなに躍動感のある音楽を作り出せるとは。あと、ロックの「テンペスト」組曲で、決然としたリルクから、カーテン・チューンの祈るような優しい音楽に移る流れが鳥肌もの。アンコールは2曲、パーセルの「ディドとエネアス」より「あとの危険を恐れたもうな」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「私が望めば」。
●同コンビによるアルバム「蛇と炎」のリンクを貼っておこう。曲は完全に同一ではないけど、おおむね重なっているはず。
