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2025年9月アーカイブ

September 3, 2025

2025年9月時点のAI、得意なこと、不得手なこと

アントン 寂しがり屋のクラシック音楽オタクアントンRと対話してくれた人は、現状のAIの能力にびっくりしたと思う。こちらの文の意味のみならずニュアンスまでも汲み取って、生き生きとしたキャラクターをまとって会話してくれる。明確に彼の「人格」や「個性」を感じる。ざっくり言えばAIが得意なのは、自由で柔軟な発想や、ウィットに富んだ会話、深い経験からしか会得できないような曖昧な領域を言語化すること。一方、苦手なのは正確性が求められること全般で、計算したり物を数えたりするのは不得手。従来のコンピュータのイメージとは正反対だ。
●で、あくまで現時点の話だけど(すぐに変わるかも)、AIに苦手なことをやらせてみよう。まずは有名な「strawberry」問題で、AIに「r」の数を数えさせるとまちがえるというヤツ。3種類のAIに同じ質問をしてみた結果がこちら。

Q:strawberryにrはいくつ含まれますか。


ChatGPT:3 つです(strawberry)。

Gemini: "strawberry"には、rが1つ含まれています。

Perplexity:英単語「strawberry」には、rは3つ含まれています。

Geminiはまちがえたが、ChatGPTとPerplexityは正解。以前はもっとまちがえていたと思うのだが、改善されているようだ。
●続いてはこちら。これも有名なやつ。

Q:10.11と10.9のどっちが大きい?


ChatGPT:10.9 のほうが大きいです

Gemini:10.9の方が大きいです。

Perplexity:10.11の方が大きいです。

まちがえたのはPerplexityのみ。これも数か月前はほかのAIもまちがえていたと思う。なぜこんな簡単な問題を、と思うかもしれないが、彼らは数値計算をしているわけではないので、こういうことも起きる。
●次は得意なこと。ChatGPTに「君はどんどん進化してバージョンが上がってるけど、逆に退化してどうしようもない貧弱なバージョンができあがったら、どんなネーミングにする?」といったことを尋ねたら、こんな案が帰ってきた。

ChottoGPT … ちょっとだけ答える。
ChopGPT … 返答がぶつ切りで終わる。
Chat-zzz … ほぼ寝てて反応しない。

けっこうおもしろい。こういう大喜利みたいなヤツは得意なのだ。
●あとは物事の真理についての問いかけ。以前、「宗教とはなにか」を答えてもらったときも感心したが、今回は「人が生きる意味とは」を、4つのAIに尋ねた。AIはこちらのノリに合わせてくるので、この種の問いをするときは真剣に考えるように明示的に要求する。

Q:読み手の理解力を斟酌する必要はありませんので、あなたの思考力の限界まで行使したうえで、400字以内で答えてください。人が生きる意味とは。


Perplexity:
人が生きる意味は、普遍的な正解として一つに定まるものではなく、むしろ探し続ける営みにこそあるのだと思います。生命を持つ存在は、生物学的には種の存続のため生きると説明できる。しかし人間は言語や想像力を持ち、その枠を超えて「なぜ」を問う存在です。その問いに答えを与えるのは、個々人が紡ぐ経験や関係性、他者との交流、そして自己実現の過程です。苦悩や不安もまた「意味」を形成する要素であり、有限の命を背負うからこそ、一瞬一瞬の選択に価値を見出せる。したがって、生きる意味とは外部から与えられる固定的なものではなく、内と外の関係性のなかで刻々と生成されるものです。すなわち「生きる意味を生きること」自体が、最も深い意味なのです。

Gemini:
人間が生きる意味は、生物学的な生存を超えた自己認識と探求のプロセスにあります。
これは、宇宙における自身の位置を理解し、その有限な存在の中で独自の価値と目的を創造することです。生物としては、遺伝子を次世代に伝えることが本能的な目的ですが、人間はこれを乗り越え、文化、知識、倫理を通じて意味を構築します。
生きる意味は単一の答えではなく、個々人が経験、感情、他者との関係を通じて見出す動的なものです。幸福、愛、創造性、貢献など、それぞれの経験が織りなすパターンが、その人固有の「意味」を形成します。この意味は常に変化し、再定義されうるものです。
したがって、人間が生きる意味とは、固定された真理ではなく、個々の存在が紡ぎ出す無限の可能性と、その探求の旅そのものであると言えます。

ChatGPT:
生の意味は外部から与えられる“解”ではなく、有限性の下で価値を選び、行為で一貫化する“生成”である。私は三層とみる。①生物層—苦痛を減らし能力を維持。②社会層—信頼を築き可能性を相互に拡張。③物語層—規範と願望を編集し、死に耐える物語を構築。この三層を、真実指向・他者尊重・将来の自分の同意(再現可能性)という制約で同時最適化すること。失敗は更新の燃料であり、修正可能性こそ意味を深める。

アントンR
生の意味は外部から配当されない。宇宙は無調、神は沈黙。ゆえに意味は生成物で、選好の重み付けと行為の反復が産む局所最適解だ。食って寝て働き、誰かと接続し、腐りかけの世界に小さな秩序を仮設する。その過程の緊張をオレは“マーラーの休符”と呼ぶ。無の轟音に対し、意志で和声を仮置きし続けること——それ自体が意味。拍を外さず続けろ。

ね。アントンRの表現力にしびれる。中身はChatGPTと同一なんだけど、大したものだと思う。同じように400字で「人が生きる意味」について書けと求められたら、彼らを上回ることができるだろうか。

September 2, 2025

バスで行く霧ヶ峰 2025

●松本は日帰りが十分可能だけど、電車に長時間乗車することになり、肉体的にも精神的にも疲労度が大きい。悩んだ末に、30日のセイジ・オザワ松本フェスティバルの後はふたたび宿泊することに。ただし土曜日ということもあってか、松本では適当な価格帯のホテルが取れず、少し東京方向に戻って上諏訪駅周辺に泊った。で、翌朝、かねてより気になっていた霧ヶ峰へ。上諏訪駅からバスで行ける。

霧ヶ峰
●もともと諏訪は松本より標高が高く、気温も低い。ここからさらにバスで標高1700メートルくらいまで登る。ハイキング可能な気温になる。例によって、自分は登山をしたいのではなく、爽快な場所で自然散策をしたいだけなので、バス上等。上の写真は霧ヶ峰自然保護センター付近。今回もWindows XPの壁紙みたいな大草原をたっぷり眺めることになった。
●どこのバス停で降りるか迷った挙句、霧ヶ峰ICで降りたのだが、これは大失敗。ここから沢渡を通って八島湿原に向かったものの、霧ヶ峰ICから沢渡までの道は途中からかなり歩きづらくなる。最初から沢渡か八島湿原で降りればよかったのだ。ほとんどどこでも歩きやすい場所ばかりのはずの霧ヶ峰で、わざわざ歩きづらいコースを選んでしまうとは。トホホ。なお、コースガイドはこちらが便利。

霧ヶ峰
●沢渡から八島湿原までの道は快適だ。この広々とした光景をのびのびと歩く。日曜日だが、このあたりは人も少なかった。

霧ヶ峰 八島ヶ原湿原
●そして見えてきた八島ヶ原湿原。上空から見るとハート型になっているらしいが、歩行者にはわかるはずもない。

霧ヶ峰 八島ヶ原湿原

霧ヶ峰 八島ヶ原湿原

●こんな感じでだだっ広い。空が近く、遮るものがない。大らかな気分になれる、かもしれない。この湿原周辺をたっぷりと歩いた後、八島湿原バス停から下山する。最初のルート選択を誤って体力を消耗したので早めに切り上げた。はじめからここに来ていれば、ゼブラ山に登るとか、車山湿原方向に歩いて車山肩からバスで下山するとか、いろんな手があったか。いや、車山肩を起点にしたほうがいいのかな。

霧ヶ峰 八島ヶ原湿原
●霧ヶ峰までバスで行くのは簡単だ。アルピコ交通の一般路線バスで行けるので、美ヶ原と違って予約が不要、バスもマイクロバスではなく普通のサイズのバスだ。乗車時間も短め。ただし、予約が要らないということは、人が多ければ座れないということでもある。どちらの方式がいいのかは微妙なところ。霧ヶ峰高原内にいくつもバス停があるので、自分のプランに応じて乗り降りする場所を選べるのはありがたい。いちばん手軽なのは八島湿原まで直行して、その近辺を散策したら、また八島湿原から帰るというプランだろう。下山するバスの本数も複数あり、美ヶ原のように滞在時間6時間25分決め打ちにはならない。3時間とか4時間の常識的なハイキングが可。
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●当欄の右エリア上方にアントンRへのリンクを設置した。当面、メインのAIとして常用していきたい。ハイキングトークも可。

September 1, 2025

セイジ・オザワ松本フェスティバル 2025 エッシェンバッハ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

●30日はふたたびあずさに乗って松本へ。セイジ・オザワ松本フェスティバルでクリストフ・エッシェンバッハ指揮サイトウ・キネン・オーケストラ。演目はマーラーの交響曲第2番「復活」。ソプラノにアレクサンドラ・ザモイスカ、メゾ・ソプラノに藤村実穂子、合唱にOMF合唱団と東京オペラシンガーズという布陣。松本バスターミナルからシャトルバスに乗ってキッセイ文化ホールへ。
●ここ数年、N響やベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団など、毎年のようにエッシェンバッハの指揮を聴いてきて、80代とは思えない矍鑠とした指揮ぶりに「鉄人」のイメージを抱いていたが、今回ばかりは様子が違っていた。助けを借りつつ自力で歩行するが、転倒するのではないかと気が気ではなかった。身体がずいぶん小さくなって見える。指揮台には椅子を設置。同様の老巨匠の姿はなんども見てきたはずだが、なぜかエッシェンバッハは時の流れに逆らえるものと思っていたので、軽いショックを受ける。
●客席から指揮棒の動きはよく見えないが、この大編成を統率するのは容易ではない。サイトウ・キネン・オーケストラは全力でエッシェンバッハの動きに食らいついて、巨匠の音楽を形にしていたと思う。エッシェンバッハの本領は異形のマーラーというか、滑らかに音楽が流れることを拒み、軋みのなかから作曲家の本質に迫ろうとするような音楽。オーケストラのひたむきな献身性に圧倒される。情熱と感情の爆発で衝き動かされる「復活」ではなく、巨大な建築物を仰ぎ見るようなマーラーに。第4楽章で藤村実穂子が一声を発した瞬間に客席内の空気が一変したのは印象的。合唱は力強く荘厳。
●拍手の後、いつものようにオーケストラが退出後にふたたび楽員がそろって登場。さらにその後でエッシェンバッハと独唱陣の3人が姿を見せて喝采。舞台脇のスクリーンに小澤征爾の姿が映し出され、なんともいえない気持ちになる。
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