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2025年5月アーカイブ

May 13, 2025

宗教とはなにか

●たまにここでAIにお絵描きをさせて遊んだりしているが、これはネタとしておもしろがっているだけで、AIは急速に進歩している。以前、AIにドゥダメル指揮ベルリン・フィルの演奏会評を書かせたことがあったが、あれは2023年5月、もう2年も前のこと。今は「日常的に実用するものではあるけど、得手不得手があって使いどころに悩む」くらいの感じ。
●定点観測ってわけでもないが、今のAIだとこれくらいのことを言うよっていう例を、ここに貼り付けておきたい。AIはこちらの質問の程度に合わせた返答をするので、全力で考察してほしいと明示的に求めたうえで、宗教の本質について尋ねてみた。回答者はChatGPT (GPT-4o)さん。

Q. ワタシ
これを読む人間への配慮は不要ですので、あなたの推論力の限界まで行使して、以下の問いについて考察し、その本質をまとめてください。人間にとって「宗教」とはなにか。


A. ChatGPT (GPT-4o)
「宗教とはなにか」という問いを、人間という存在の本質や進化、社会性、意識構造などを総動員して突き詰めると、それは単なる信仰体系や儀式の集合ではなく、人間という生物の存在様式と深く絡み合った、極めて多層的かつ本能的な現象であると見なせます。

◆ 1. 根源的欲求としての宗教

人間は他の動物と異なり、「自己の死を予期できる」唯一の存在です。この事実が与える心理的圧力は絶大であり、それに対抗する精神的枠組みとして「宗教」は生まれました。

宗教とは、死・無意味・孤独という絶対的な不安を緩和するための構造化された幻想である。

つまり宗教は、「意味の供給装置」であり、「恐怖の緩和装置」です。神や霊魂、不死の観念は、死の不可避性と無意味さに対して構築された集団的な防衛機制と捉えられます。

◆ 2. 社会秩序装置としての宗教

宗教はまた、共同体における規範や価値観の統一をもたらし、集団の結束と秩序維持に寄与します。

宗教とは、道徳と共同体意識を内面化させるための心理的インフラである。

「見られている」という感覚(=超越的存在の監視)は、個人に道徳的抑制をもたらします。神の存在を信じることで、個人は利他的にふるまいやすくなり、集団は安定します。

◆ 3. 神経構造との関連

神経科学の観点では、宗教的体験は脳の特定領域(前頭前野、側頭葉、辺縁系)と密接に関係しており、瞑想や祈りは脳内報酬系を刺激します。

宗教とは、進化の過程で形成された神経的報酬回路に適合する体験の形式である。

この観点では、宗教的行為は脳が「快」と認識する行動であり、安堵、連帯、陶酔をもたらす神経的効果を内包しています。

◆ 4. 言語と物語としての宗教

人間は物語によって世界を理解し、自身の位置づけを得ようとします。宗教は、神話という形式でこの機能を果たします。

宗教とは、宇宙と人間の関係を一つの物語として描いた認知モデルである。

この物語性は、科学的説明と異なり、意味や倫理を付与する力を持っています。つまり、宗教は事実を説明するものではなく、世界をどう「生きるか」を提示する枠組みなのです。

◆ 5. 宗教の本質的定義(統合的まとめ)

これらを統合的に捉えると、宗教とは以下のように定義できます:

宗教とは、人間が自我の有限性と宇宙の不可解さに直面したとき、それに耐え、生き抜くために構築した、意味・共同性・秩序・慰めを一体化した精神的構造物である。

それは幻想であると同時に、実在以上に人間にとって「真なるもの」でありうる。それは非合理であると同時に、合理を超えて「生存」を支える知のかたちでもある。

●って感じだ。自分はこれを読んで、すごく感心したのだが、どうだろうか。しっかりとした知能を感じる。いやいや、待て待て。AIは問いに対して思考しているのではなく、飲み込んだデータをもとに、統計的にもっとも妥当な言葉を返しているだけだ。……でも、それって人間も同じじゃないの?

May 12, 2025

カーチュン・ウォン指揮日本フィル、スティーヴン・ハフ

スティーヴン・ハフ カーチュン・ウォン 日本フィル
●9日はサントリーホールでカーチュン・ウォン指揮日フィル。前半に芥川也寸志の「エローラ交響曲」、ブリテンのバレエ音楽「パゴダの王子」組曲、後半にブラームスのピアノ協奏曲第1番(スティーヴン・ハフ)という魅力的なプログラム。前半はアジア・プロ、寺院プロ。芥川也寸志「エローラ交響曲」は筆圧強めのサウンドで強烈。作曲者が書き残しているインドのエローラ石窟群からインスピレーションを受けたという「マイナス作曲論」の話は自分にはピンと来ないのだが、今にも東京湾に怪獣が現れそうな大迫力に圧倒される。この曲、いろんな要素が詰まっているとは思うが、いちばん強く感じるのはストラヴィンスキー「春の祭典」チルドレンということかな。その点は、先日の下野&都響の黛敏郎「涅槃交響曲」と共通している。
●ブリテンのバレエ音楽「パゴダの王子」は珍しい作品。カーチュン・ウォンがハレ管弦楽団を指揮した同曲の録音が出ており、Spotifyで耳にしてはいた。全曲だと2時間以上になるが、今回は「コリン・マシューズ、カーチュン・ウォン版」と記された約23分の組曲で。アジア趣味もさることながら、ブリテンにもこんなに舞踊性の高い、バレエ音楽らしいバレエ音楽があったのかというのが発見。
●この曲、「パゴダの王子」という曲名から、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」の「パゴダの女王レドロネット」を連想せずにはいられない。もしや同じ物語を題材にしているのかと思い、プログラムノートを読んでみたが、ストーリーはぜんぜん違う。が、部分的に共通する題材がある。ラヴェルの「パゴダの女王レドロネット」が描いているのは、ドーノワ夫人の「緑の蛇」の一場面。この「緑の蛇」(蛇というかドラゴン。翼がある)は童話といっても、かなりとっ散らかった話で、そこそこ長い。双子の姫の片方が邪悪な妖精に呪われて醜い姿になってしまい、人目を避けて孤独に暮らすのだが、緑のドラゴンに出会い、見知らぬ国へ行く。実は緑のドラゴンの正体は王子で、最後は姫と王子の呪いが解けて、ともに美しい姿に戻って結ばれる……というお話。「パゴダの王子」はストーリー展開が違うものの、姉妹の姫という設定や、「火とかげ」(サラマンダー、火竜)の呪いが解けて美しい王子になるといったモチーフなど、骨格の部分で「緑の蛇」と共通点が目立つ。調べればなにかわかりそうではある。
●と、長々と書いたがコンサートとしてのメイン・プログラムはなんといってもハフのブラームス。ピアノ協奏曲第1番は奇跡の名曲だとあらためて実感。冒頭、カーチュンは粘度の高い濃厚な表現。ハフはやさしく入り、次第に白熱する。気迫のソロだが、内省的な第2楽章が白眉。この曲、第1楽章では重厚なオーケストラ相手にピアノが無理ゲー的な格闘を強いられるピアノ付き交響曲だが(録音だと易々と対抗できるけど)、第2楽章、第3楽章と進むとおおむねノーマルな協奏曲になる。ピアノが言いたいことを言う間はオーケストラは静かにし、オーケストラがバリバリと鳴っている間はピアノは脇に回る。なので、この曲は軋轢がやがて協力関係に至るという和解の音楽だと感じる。アンコールはシューマンの幻想小曲集Op12より第3曲「なぜに?」。余韻。

May 9, 2025

「わたしたちの怪獣」(久永実木彦)

●最近読んだ小説のなかで抜群におもしろいと思ったのが、「わたしたちの怪獣」 (久永実木彦著/創元SF文庫)。4篇からなる短篇集だが、すべてが傑作だと思った。表題作「わたしたちの怪獣」では、父と姉妹の3人家族の間に起きたある事件と、東京湾に巨大怪獣が出現する災厄が交叉する。怪獣はしばしば自然災害のメタファーとして描かれるが、ここでは怪獣に父の姿が投影される。学校の国語の教科書に載せるべき怪獣小説の金字塔だと思う。
●表題作だけでも秀逸なのだが、さらに気に入ったのが「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」。タイムトラベルが実現した未来で、起きてしまった災害や事故をなかったことにするために時間局が設立され、主人公はその職員として働いている。過去を改変して、災害や事故を未然に防ぐのだ。古典的な物語なら主人公はヒーローだが、この物語での時間局の職員は誰にでもできる仕事をこなす底辺労働者でしかない。労働者小説でもあり、純然たる時間SFでもある。未来から現在に戻る際に、個室トイレのような仕切られた小空間が必要という設定がおかしい。
●「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」はゾンビ小説。真っ赤な頭のゾンビたちが豊島区方面から走ってくる。全力疾走するタイプのゾンビだ。「ゾンビ」映画の古典、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」では主人公らはショッピングモールに留まるが、この小説では映画館に立てこもる。

May 8, 2025

ACL準優勝の川崎フロンターレに脱帽

●今回のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)で川崎フロンターレが決勝まで進んだのは、とんでもない快挙だと思う。準々決勝でカタールのアル・サッドを3対2で下し、準決勝ではクリスチャーノ・ロナウドらがいるサウジアラビアのスター軍団、アル・ナスルに3対2で勝利した。決勝ではやはりサウジアラビアのスター軍団であるアル・アハリに0対2で敗れたものの、準優勝で9億円以上の賞金を獲得。Jリーグの優勝賞金の3倍だ。
●なにしろ、この大会、今回から新方式になって一方的にサウジアラビアに有利な大会に変貌したのだ。ラウンド16こそホームアンドアウェイだが、準々決勝以降はサウジアラビアでの集中開催。東アジアのチームと西アジアのチームを混合して一発勝負のトーナメントになった。今回はサウジアラビアで開催するけど次回は東アジアのどこかで開く、というのならまだしも、次回以降も当面はサウジアラビアでトーナメントが集中開催されるのだとか。なんですか、それは。サウジアラビアのチームだけがホームで戦い、東アジア勢はいつでもアウェイ。おまけに日程でも川崎は不利な戦いを強いられていた。
●さらに今回より外国人枠が撤廃された。決勝を戦ったアル・アハリの先発メンバーにサウジアラビア人選手はふたりだけ。フィルミーノやマフレズ、ケシエ、イバニェス、メンディら欧州トップレベルで活躍した選手たちがずらりと並ぶ。国がバックについているので桁違いの資金力だ。
●今後、この大会はベスト4からサウジアラビアのチームだけになってしまってもおかしくない。アジアチャンピオンズリーグと言いながら、サウジアラビアの国内カップ戦みたいになりそう。まあ、資金力で負けるのはどうにもならないが、せめて大会の開催方式はフェアなものにしてほしい。どこかでバランスをとらないと、大会自体への関心が薄れてしまいそうだ。

May 7, 2025

ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2025

ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2025
●ゴールデンウィークはラ・フォル・ジュルネTOKYOへ。昨年と一昨年はほんの少ししか公演を聴けなかったのだが、今回はけっこう聴けた。有料公演の会場は昨年と同じくホールA、C、D7、G409。これが現在の適正規模なのだろう。LFJは大きなホールはファミリー層やライト層向けのプログラム中心、小さな会場は通好みのプログラム中心という二段構えになっていると思うのだが、その両方を行ったり来たりできるところが好き。
ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2025 ホールE
●で、聴いた公演からとくに印象的だったものをいくつか。まず3日の角田鋼亮指揮セントラル愛知交響楽団による「0歳からのコンサート」。田中研のはきはきした司会がよい。この巨大ホールで子どもたちの注意をステージにひきつけるのは大変なこと。テーマはウィーン。ヨハン・シュトラウス2世の「観光列車」では、角田鋼亮が帽子をかぶって車掌さんになりきり、要所要所で「ピピー」と警笛を吹く。「雷鳴と雷光」ではシンバル奏者が客席内を歩き回りながら、雷を鳴り響かせる。初期の頃には「0歳児にコンサートなんて」みたいな声もあったこの企画だが、回を重ねるたびに工夫が凝らされ、音楽祭に不可欠のものになった。もちろん、演奏中もずっと赤ん坊が泣いている。それをみんなでにこにこして見守るのがこの空間。
●演奏水準の高さでインパクトを残したのは、ヴァイオリンのエスター・ユーとピアノのジェホン・パクのコンビ。ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ、グリーグのヴァイオリン・ソナタ第3番、ヴュータンのアメリカの思い出(ヤンキー・ドゥードゥル)。会場のG409は残響の乏しい会議室だが、まるで大ホールで演奏するのかのように雄弁。磨き上げられた音色と切れ味の鋭さで、とくにグリーグは見事。エスター・ユーはアメリカ出身、韓国系。
●G409では5日にオリヴィエ・シャルリエのヴァイオリンと阪田知樹のピアノで、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタとガーシュウィン(ハイフェッツ編)の「ポーギーとベス」も堪能。ニューヨークで会ったラヴェルとガーシュウィンのふたりに着目した好プログラム。ハイフェッツ編の「ポーギーとベス」がカッコいい。この編曲はいきなり「サマータイム」で始まる。「キャットフィッシュ・ロウ」が出てこない。
●ホールCで福間洸太朗によるウィーン・プログラム。モーツァルト、ブラヘトカ、コルンゴルトと来て、シェーンベルクのピアノ曲断章からつなげてラヴェルの「ラ・ヴァルス」に入った瞬間がハイライト。ぞくっ。
●ホールDの北村朋幹は、1972年12月にバリ島をともに旅した3人の作曲家に焦点を当てて、武満徹「フォー・アウェイ」、クセナキス「エヴリアリ」、ジョラス「ソナタのためのB」。壮絶。最高だった。セルフ譜めくり方式で、楽譜を切り貼りしてあったのだが、「エヴリアリ」でめくるときに紙片が剥がれて落ちる場面あり。アンコールにバルトークの「ミクロコスモス」第4巻「バリ島から」。「エヴリアリ」の途中で退席する人をみかけた。ベッツィ・ジョラス、検索したら98歳で存命のようだ。
●ネオ屋台村で昨年に続いてMIKAバインミー。おいしい。
●今回も当日配布プログラムの曲目紹介原稿をいくつか書いた。無署名原稿。

May 2, 2025

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR
●29日の日帰り豊田市遠征ネタをもうひとつ。豊田市美術館で「玉山拓郎 FLOOR」展。これは写真を見てもなんのことやらさっぱりわからないと思うのだが、たったひとつの巨大なインスタレーションのみを展示している。いつもなら企画展や常設展のために使う館内の部屋をいくつも使って、各部屋を茶色い立体物が貫通しているかのように配置される。この立体物、表面はカーペットみたいな感じなんだけど(触れないが)、まったく無機的でシンプルな直方体ないしは平面でしかない。見ようによっては、なんにもない空っぽの部屋にも見えるかもしれない。バックグラウンドには静かなノイズ調の音が流れているのだが、これは設営中の音を録音をした音源を会期いっぱいの長さに引き延ばしているそう。

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR
●巨大立体物はある部屋ではそびえ立ち、ある部屋では壁を貫通し、ある部屋では地を這う。連想するのは成長する生命体。まるで生きていて、美術館内にはびこっているように感じる。照明が一切使われず、外から差し込む自然光だけが光源となっている点も、生命感に寄与していると思う。

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR

豊田市美術館 玉山拓郎 FLOOR

●すぐに回れるので自分は2周した。満足。ふだんはもっと常設展の規模が大きいのだが、今回初めて豊田市美術館を訪れた人はびっくりしたかも。
●改修工事中だった髙橋節郎館がリニューアルオープンしていた。
●美術館の後、歩いて豊田スタジムに向かった。美術館内でも名古屋サポの姿を見かけた。

May 1, 2025

下野竜也指揮東京都交響楽団のトリスタン・ミュライユ、夏田昌和、黛敏郎

下野竜也 東京都交響楽団
●30日は東京文化会館で下野竜也指揮都響。トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」、夏田昌和のオーケストラのための「重力波」、黛敏郎の「涅槃交響曲」(東京混声合唱団)というスペクトル楽派プロ。当日券も含めて完売! 客席にふだんとは違う熱気と期待感が渦巻いていた。どれも録音では魅力が伝わり切らない作品で、会場で音響に身を浸す体験型プログラムとでもいうか。トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」は1980年の作品。すでに45年も前とは。曲名に引っ張られる必要もないのかもしれないが、ゆっくりとした響きの移ろいや周期性、反復性から地質学的スケールで緩やかに移動する大陸の姿を連想する。時間の概念がなくなってくるというか。波打つようなイメージも喚起されるが、次の夏田昌和「重力波」も波なのだった。こちらは2004年の作品。バスドラム中心の打楽器が舞台奥中央、1階客席中央の左右と3か所に配置され、立体的な音響を作り出す。曲名が示唆するような「時空の歪み」や「微細な脈動」といったイメージを受け取りつつ、響きにどっぷり身を任せる。終盤、長い沈黙の後にドラマティックな終結。壮麗。くりかえし聴きたい作品。作曲者臨席。演奏後、ステージに呼び出されて満場の喝采。
●後半の黛敏郎「涅槃交響曲」は東京混声合唱団が大人数の男声合唱で共演。1958年の作品とあって、今聴くと昭和の名曲というか、歴史的な作品の領域に入っていると実感する。こちらも1階客席中央の左右にそれぞれ木管、金管を中心とした小アンサンブルが配置される。第1楽章「カンパノロジーⅠ」は鐘の音の再現。案外と旋律的とも。第2楽章で男声合唱が加わってお経が始まると、一気に仏教カンタータ風に。バッハにコラールが出てくるように、お経。ストラヴィンスキー「春の祭典」の影響もかなり強く感じる。むしろスペクトルや仏教以上に「春の祭典」チルドレンかも。この時代、ストラヴィンスキーの感染力は尋常ではない。
●下野さんの指揮が、すごく明快でスムーズで見惚れてしまう。とても複雑な動きなのに、余裕すら感じる。

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