
●28日はサントリーホールでアイヴァー・ボルトン指揮読響。プログラムはエルガーのオラトリオ「ゲロンティアスの夢」。ゲロンティアスにテノールのトーマス・アトキンス、司祭/苦悶の天使にバリトンのクリストファー・モルトマン、天使にメゾ・ソプラノのベス・テイラー。合唱は新国立劇場合唱団。休憩あり、字幕あり。2018年にノット&東響が同曲を演奏して以来の貴重な機会。録音で聴くと晦渋な印象の強い曲だが、ライブだとそこまでとっつきにくい曲ではない。第1部が短めで、休憩を入れて第2部に入るのはわりとフレンドリーな構成。
●第1部の冒頭はかなりワーグナー的で、「パルジファル」の延長上にあるような音楽。第2部では一瞬、ヴェルディの「レクエイム」っぽくなるけど、やっぱり全体はワーグナー的。字幕のおかげでテキストを理解できたのはありがたい。カトリック的な死生観に共感しづらいところがあって、作品との距離を覚える場面も多々あるのだが、音楽はすこぶる魅力的。アトキンスのゲロンティアスはやや抑制的というか、慎重なペース配分を感じたが、声質はすばらしい。対して司祭のモルトマンは圧倒的な声量で威厳たっぷり。ボルトン指揮読響は充実。磨かれた響きで、第2部では大きなクライマックス。
●曲が終わると完璧な沈黙が訪れ、そのあとは大喝采に。ブラボー多数。この作品でこれだけ客席が盛り上がるとは。楽員退出後も拍手が鳴り止まず、ボルトンがアトキンスとテイラーを伴って登場。ボルトンは本当に嬉しそう。
2026年4月アーカイブ
アイヴァー・ボルトン指揮読響のエルガー「ゲロンティアスの夢」
ACLでのJリーグ勢の健闘、浦和対マリノス戦
●今季のアジア・チャンピオンズリーグ・エリートは町田ゼルビアが決勝まで進み、サウジアラビアのアル・アハリに延長戦の末に惜しくも敗れた。これは偉業。町田のサッカー(つまり黒田剛監督のサッカー)にはぜんぜん共感できないが、準々決勝でサウジのアル・イテハド、準決勝でUAEのシャバーブ・アル・アハリを破って決勝まで進んでいるのだ。桁違いの資金力で欧州や南米から名選手を買い漁る中東のタレント軍団に対して、「選手を売る側」に立つJリーグのクラブが、アウェイでこれだけ戦えるのは異常事態といってもいい。しかも黒田監督は青森山田高校の指導者からの転身。ロングスローの多用など、「部活サッカー」などと揶揄されたが、考えてみれば「トーナメントの一発勝負」の経験値はプロの監督のだれよりも多い。アジアナンバーワンを決める大会だったはずなのに、サウジアラビアで常時開催されるなど、資金力の差からまったくフェアではない大会になってしまったが、これだけJリーグ勢が強いのは想定外だろう。ヴィッセル神戸も準決勝まで勝ち進んだのは立派。もしJリーグ勢同士の決勝になっていたら痛快だった。
●それだけJリーグのレベルが上がっているわけで、先週末の浦和対マリノス戦をDAZNで観ても、一昔前とは異次元のサッカーをしていると痛感。両チームともボールホルダーへのプレッシャーが厳しく、前を向く時間を与えない。フィジカルが弱いとなにもさせてもらえないし、瞬時の判断力は必須。よくこれでボールをつなげるものだと感心する。球際の激しさでマリノスが半歩勝った試合で、結果は浦和 2対3 マリノス。最近、マリノスは負けてばかりなのだが、珍しく勝った。
●マリノスはすっかりボールを保持しないチームになり、後方からのビルドアップも放棄している。パスは1試合でわずか319本、しかも成功率65.8%。五分五分の競り合いを承知で早めに前線にボールを送っているのだ。もちろん保持率はどの試合でも低い。マリノスの攻撃は相手のボールを奪うところから始まる(あるいは五分五分のボールを奪ったところから始まる)。ハイプレスからのショートカウンターよりも、むしろ深い位置で奪ってからのカウンターが目立つ。基本的に守備が弱いので、だいたい負けるが、たまに勝つ。勝っても負けても、ポステコグルー監督時代の華麗なアタッキングフットボールが恋しくなる。
マイケル・ティルソン・トーマス
●長らくマイケル・ティルソン・トーマスは「若々しさ」「清新さ」のシンボルのような存在だったので、そんな人物にも老いが訪れ、ついに世を去るということが信じがたい。サンフランシスコ交響楽団での功績は文句なしに大きく、来日公演も記憶に残ってはいる。とはいえ、いま思い出すマイケル・ティルソン・トーマスは、もっと若い頃の颯爽とした姿だ。録音はたくさん残っている。思い出深いディスクをいくつか挙げて、追悼したい。
●まずは、ロンドン交響楽団とのブラームスのセレナーデ第1番。自分にとって、この曲のファーストチョイスだった。溌溂としてエネルギーにあふれていて、シンフォニック。第1楽章はなんど聴いてもワクワクする。その後、この曲を何回かライブで聴いているが、なぜかこの録音で受けた印象ほどオーケストラがきれいに鳴らない。
●こちらはセント・ルークス管弦楽団とのベートーヴェン「英雄」。オリジナルのジャケットには若くてカッコいいティルソン・トーマスの姿が載っているのだが、廉価盤シリーズで買ったので、こちらのジャケットでなじんでいる。20世紀後半の重厚な巨匠主義的な演奏の反対側にあるキレのある機敏なベートーヴェンとして気に入っていた。いま聴いたらどう感じるのか、怖いような楽しみなような……。きっと色褪せていないと信じる。
●これぞ、ティルソン・トーマスだ!と言えるのは、この路線だろう。ロンドン交響楽団との「ストラヴィンスキー・イン・アメリカ」。こういうジャケットは今となっては貴重か。なじみの薄かったアメリカ時代のストラヴィンスキーの作品がまとまっているので飛びついた。ストラヴィンスキー編のアメリカ国歌や「サーカス・ポルカ」のような楽しい小品から、バレエ音楽「アゴン」まで。ピエール・モントゥー80歳のための「グリーティング・プレリュード」(ストラヴィンスキー流ハッピーバースデー)には笑った。
●ティルソン・トーマスのディスクを語るうえで、挙げないわけにはいかないのが、ニュー・ワールド・シンフォニーとのヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ」だろう。しばしばクラシックのワースト・ジャケットとしてネタにされるという点で、殿堂入りを果たした名盤。ブラジルだからというだけで過剰なまでに熱帯化されており、巨大なバナナの葉を背景にカラフルなオウムといっしょサングラスをかけてポーズをとる。こんな姿が似合う指揮者がほかにいるだろうか。
●いちばん有名なブラジル風バッハ第5番をルネ・フレミングが歌っている。気品のあるクリーミーボイスで、まったく非熱帯的だが、そこがいい。
阪田知樹 記者懇親会

●22日は表参道のスタインウェイ&サンズで、ジャパン・アーツによる阪田知樹記者懇親会。デビュー15周年とリスト・コンクール優勝から10周年の節目を迎え、11月10日オペラシティでのオール・リスト・プログラムによるリサイタルや、この春と秋の全国リサイタルツアーへの意気込みを語ってくれた。
●すでに海外20か国以上で演奏し、ピアノ協奏曲のレパートリーは50を超えるという阪田知樹だが、作曲活動も盛ん。7月に世界初演される神奈川フィル委嘱作品では、ソプラノの森谷真理が独唱、自身が指揮を務める。ほかに11月には群響で委嘱作品が米田覚士指揮で初演される。作曲はまったくピアノ曲に偏っていないが、いずれはピアノ協奏曲も書きたいという。目指す理想像はピアノ、作曲、指揮などすべての領域で実績を残す「コンプリート・ミュージシャン」と話していたのが印象的だった。これが本来の音楽家の姿であり、かつては作曲も演奏もいっしょのものであって、分業化が進んだのは長い音楽の歴史のなかではごく最近のことにすぎないと語る。
●一通りの質疑応答の後、演奏も。ラフマニノフ~阪田編の「ここはすばらしいところ」、リストの「忘れられたワルツ」第1番。至近距離で聴く貴重な機会。耳福。
東京芸術劇場ナイトタイム・パイプオルガンコンサート Vol.55 山田由希子

●22日はかなり久しぶりに東京芸術劇場ナイトタイム・パイプオルガンコンサート。19時30分開演で20時30分終演、休憩なしという少し特殊なスタイルの演奏会で「遅く始まって早く終わる」のが特徴。平日対応のひとつの形。オルガンは山田由希子。松本市音楽文化ホールのホールオルガニストで、ローザンヌ国際バッハ・コンクール第3位、バチェーノ国際オルガン・コンクール優勝他の受賞歴。
●近年、芸劇はオーケストラのコンサートだと反響板を下ろしてオルガンが見えないことがほとんどだが、ここのオルガンはルネサンス/バロック面とモダン面の2面構成になっている。この日は上のようなルネサンス/バロック面で始まって、途中でオルガンが回転して(3分かかる)モダン面に変わった。うっすら漂う変形合体ロボ感。
●プログラムはパブロ・ブルーナの「第1旋法による右手のティエント」、ベームのパルティータ「主イエス・キリストよ、われらを顧みて」、バッハのコラール「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」BWV622、トッカータとフーガ ニ短調「ドリア調」BWV538、オルガンの回転をはさんでヴィエルヌのオルガン交響曲第3番より第4楽章アダージョ、トゥルヌミールのテ・デウムによる即興曲(デュリュフレ復元版)。最初のブルーナはルネサンス・タイプ(A=467Hz)、ベームとバッハはバロック・タイプ(A=415Hz)、ヴィエルヌとトゥルヌミールはモダン・タイプ(A=442Hz)のオルガンを使用、それぞれ調律も異なる。この変幻自在さも合体ロボ的。バッハのトッカータとフーガ ニ短調「ドリア調」は、あの超有名なトッカータとフーガ ニ短調とは別の曲ということで、「ドリア調」の愛称をつけて区別されている。といってもこの曲は別にドリア調ではなくてふつうにニ短調で、一種の誤解から付けられた愛称のようだが、どうしても超有名なあちらの曲と区別する必要があるので、愛称は必須。超有名なあちらが「本当にバッハなの?」的な疑念から逃れられないのに対して、こちらの「ドリア調」は堂々たるバッハ。フーガに入ると、ぐっと張りつめた雰囲気になり荘厳。
●ヴィエルヌとトゥルヌミールは、ふだん自分が聴かないロマン派オルガン音楽の世界なので新鮮。ワーグナーの楽劇に出てきそうな瞑想的なヴィエルヌから、一転して重厚壮大なトゥルヌミールへとなだれ込む場面がハイライト。トゥルヌミールのテ・デウムによる即興曲は、弟子のデュリュフレが1955年から58年にかけて採譜したものなのだとか。オルガンの世界では20世紀以降も即興演奏が創作の源となっていることに思いを馳せる。
●下は反転したモダン面。こちらのほうがなじみがあると思う。

目黒区美術館 「岡田謙三 パリ・目黒・ニューヨーク」

●目黒区美術館の「岡田謙三 パリ・目黒・ニューヨーク」展へ。なじみのない美術館だったけど、行ってみたらとても居心地のよい場所だった。岡田謙三(1902-1982)の1920年代のパリ、帰国後の目黒区自由が丘、50年代以降のニューヨークでの3都市にわたる創作活動をふりかえる。上は「花売り」(1936)。なんとも言えない目つき。序盤はこんな作風なのに、これがどんどん変遷してゆく。

●こちらは「高原」(1939)。大作。神話的な光景で格調高い。こんなにクラシックなスタイルから、どんどんモダンなスタイルに変わってゆく。

●「シルク」(1947)。画風が一気に新しくなっている。サーカスという題材もモダンな感じ。

●で、こちらは「五人」(1949)。ぐっと抽象度が増して、研ぎ澄まされた雰囲気に。わ、そんな方向に進化するとは。見ていてテンションが高くなる。

●本領はさらにその先にあって、これが「雲と子供」(1966)。完全に抽象画になる。油彩なんだけど切り絵みたいな雰囲気で、色調も日本的。アメリカで自身の作風を「ユーゲニズム」(幽玄からの造語)と称したそうなんだけど、なかなかにキャッチー。

●こちらはタイトルも抽象化していて「重」(1965)。これも油彩。最終形態まで進化した感。「重」って、どういう意味なんだろう。概念としての重さ、重力のようにも思えるし、単に「お重」みたいにも見える。
「不死の島へ」(クリストファー・プリースト)
●最近読んだ本でぶっ飛んでいると思ったのが、クリストファー・プリースト著「不死の島へ」(古沢嘉通訳/東京創元社)。一昨年世を去ったイギリスの作家クリストファー・プリーストの小説は、これまでにも「夢幻諸島から」「双生児」「魔法」などを当欄で紹介している。SFやファンタジーといったジャンル小説の枠組みで刊行されているものの、いずれもが「小説についての小説」や「現実と虚構の境目」といったテーマを扱ったメタフィクション。今回の「不死の島へ」もまさしくそう。
●主人公はロンドンに住む若者。人生に挫折してロンドンを去り、知人の別荘に引きこもって孤独な執筆作業に没頭しながら、自己と向き合う。自分とは何者か。それを書くためには物語が必要(だからこそ世の人々は小説を書いたり読んだりするわけだ)。そこで、彼は「夢幻諸島」(ドリーム・アーキペラゴ)なる架空の世界を舞台に、自己の物語を書く。夢幻諸島とはもうひとつの地球にある赤道近辺に散らばる無数の島々のことで、それぞれの島には独自の文化が花開いている。この世界で主人公は宝くじにあたり、不死になる処置を受ける権利を獲得する。不死になるとは、すなわち生きる意味を問い直すこと。主人公はその処置を受けるべきか、悩みながら恋人とともに島々を巡る。
●この島々への旅が実に魅力的に描かれているのだが、夢幻諸島とはプリーストが別の作品でもたびたび登場させている世界であり、その様子は連作短編集「夢幻諸島から」でたっぷりと描かれている。ふむふむ、なるほど主人公は作者プリースト自身の投影であり、小説が生まれるプロセスを書いた小説なのだね……と納得しながら読んでいると、途中からの展開に不意を突かれることになる。読書の楽しみを損なわない程度に書くと、夢幻諸島側の主人公は架空の都市ロンドンを舞台とした物語を書いているのだ。現実と思った側と虚構と思った側が鏡合わせになっており、その両者が侵食し、どちらが小説内現実なのかが揺らぎ始める。プリーストの真骨頂だ。
●先に「夢幻諸島から」を読んでいる人は、「ああ、これはあの島だね」と記憶を掘り起こしながら読める。でも、未読なら「不死の島へ」を読んだ後に「夢幻諸島から」を読むという楽しみが待っている。読む順番はどちらでもいいと思う。
ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のマーラー5

●17日はサントリーホールでファビオ・ルイージ指揮N響。プログラムはモーツァルトのクラリネット協奏曲(松本健司)とマーラーの交響曲第5番。かねがねマーラーの5番とセットになる曲はモーツァルトの「ハフナー」交響曲が多いと思っているのだが(少し短いのでちょうどいい)、この日の前半はクラリネット協奏曲で少し長めのプログラム。ソロはN響首席奏者の松本健司。ふだんからともに演奏する仲間たちとの共演らしく、ソロとオーケストラがすっかり一体となり、流麗優美。アンコールが同じクラリネット五重奏曲の第2楽章で、ヴァイオリンの郷古廉、森田昌弘、ヴィオラの中村翔太郎、チェロの藤森亮一がその場で加わる。これは絶品。全曲聴きたくなる。
●後半のマーラーは壮麗。やっぱりルイージら巨匠クラスが指揮台に立ったときのN響はすごい音が出てくる。響きの質感、密度、解像度に圧倒される。造形は決して中庸ではなく、意外性のあるテンポの変化やたびたびの管楽器のベルアップなど、ルイージ印のマーラーなのだが、以前のマーラーの交響曲第3番と同様、ポジティブなエネルギーにあふれている。ルイージが猛烈に煽る場面もあるとはいえ、鳴っているのはライトサイドのマーラーで、アイロニーやグロテスクさなどダークサイド成分はあまり感じない。高揚感あふれる終楽章が終わると、客席から大喝采。
●客席が盛大にわいたのに、カーテンコールを待たずにすぐに立ち上がる人が目立ったのは、終演が遅かったからだと思う。21時20分くらいだったかな。気持ちはわかる。
●舞台上にたくさんマイクが立っていた。なんらかの形でリリースされるのだろうか。
カフェインレスコーヒーなら眠れる
●最近の小さな感動、その1。今まで一度も試したことがなかったのだが、カフェインレスコーヒー(デカフェ)を試してみたら、本当に眠れるということを発見した。ふだん、コーヒーは自家焙煎のお店の豆を毎回ミルで挽いて飲んでいるのだが、だんだんカフェインの代謝に時間がかかるようになってきたらしく、夜に飲むとうまく眠れなくなった。そこで導入してみたのが、お手軽なドリップバッグのカフェインレスコーヒー。ミルクを足してカフェオレにしているが、思ったよりおいしく、ちゃんと眠れる。すごい発明だ(←今さらすぎ)。
●最近の小さな感動、その2。PCでは秀丸メール(と秀丸エディタ)を愛用しているのだが、秀丸メールの最新バージョンで、迷惑メールの判定にGoogle Geminiを利用する設定ができていた。これがよいのだ。GeminiのAPIキーを自分で取得しなければならないが、やり方は簡単。全メールをGeminiに投げるわけではなく(それはリソース的にムリ)、秀丸側のSPAM判定で白黒つかなかったものだけをGeminiに問い合わせる方式で、スマート。いにしえの定番シェアウェアながら、しっかりAI時代に対応してくれている。
東京・春・音楽祭 東博でバッハ vol.81 山澤慧(チェロ)

●15日は東京国立博物館の法隆寺宝物館エントランスホールで「東京・春・音楽祭」のミュージアム・コンサート「東博でバッハ vol.81 山澤慧(チェロ)」。プログラムが魅力的で、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調、西村朗の「チェロのためのオード」、バッハの無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調、休憩をはさんで黛敏郎の「BUNRAKU」、バッハの無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調。まるでオペラシティの「B→C」みたい。あるいは「C→B」というべきか。アンコール前に奏者本人のトークにもあったように、西村作品と黛作品の選択は東博という会場に合わせたもの。場にふさわしく、音楽的な流れという点からもコントラストが効果的。残響がとても多い会場なので、なにを弾いても朗々と響き渡る。バッハは颯爽としてのびやか。停滞することなく、前へ前へと進む。西村朗「チェロのためのオード」は91年に堤剛が委嘱した作品。前夜に堤剛による矢代秋雄のチェロ協奏曲を聴いたばかりだが、ここでもレジェンドの存在感。この曲からほとんど切れ目なく、バッハにすっと入る瞬間がいい。圧巻は黛敏郎「BUNRAKU」。力強く雄弁。着想源の文楽、太棹三味線がチェロ独奏曲として完全に昇華された名曲。作品が古典として受け継がれていることを改めて実感。

●「東博でバッハ」の会場は、この法隆寺宝物館エントランスホールと平成館ラウンジの2か所が用いられている。響きがたっぷりとしているのはこちら。エントランスの入り口側にステージを置いて、奥の階段の方向に向かって椅子が並べられるのだが、天井も高く、反響も十二分にあって、まるでシューボックス型のコンサートホールのよう。ここでバッハを聴く醍醐味は、われわれが音楽を聴くすぐそばで、たくさんの飛鳥時代の観音菩薩立像や如来立像もバッハも聴いているというシチュエーションにある。7世紀前後の菩薩像から見れば、18世紀のバッハは遠い未来の音楽。
沖澤のどか指揮京都市交響楽団のシュトラウス「家庭交響曲」他
●14日はサントリーホールで沖澤のどか指揮京都市交響楽団。京響70周年&サントリーホール40周年記念公演。プログラムはリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、矢代秋雄のチェロ協奏曲(堤剛)、シュトラウスの「家庭交響曲」。矢代秋雄のチェロ協奏曲の初演は1960年。N響の世界一周演奏旅行のための作品であり、その初演者が当時18歳の堤剛。それから66年もの時を経て、現在サントリーホールの館長も務める堤剛が同曲を演奏するという偉業。まさにレジェンド。内省的なモノローグ風の独奏ではじまり、晦渋な楽想が続くが、後半は管弦楽が「春の祭典」ばりに荒ぶる妖しい祝祭。嵐が去っても独奏チェロはひたむきに内面に向き合うかのように独白を続ける。おしまいの余韻が味わい深い。渾身のソロ。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンド。
●沖澤のどか指揮のシュトラウス「ドン・ファン」はサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏があったと思うけど、今回は京響。コンサートマスターに特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣、ヴィオラにはソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積と両翼に重鎮が構えて、サイトウ・キネンを連想させる布陣。冒頭がビシッと決まって、勢いがあり、なおかつバランスのとれた端然とした「ドン・ファン」。「家庭交響曲」も同様に描写性や陶酔性に過度に傾かず、ていねいで明快整然。管楽器のソロは巧みで名手ぞろい。「家庭」という題材、素直に考えれば三重奏とか四重奏くらいのスケール感なのに、これだけの大編成大音響で演奏至難な大作を創造するシュトラウスの破格の構想力にあらためて感嘆する。フィナーレは壮大。客席は盛大にわきあがった。ファンの熱さを感じる。
国立西洋美術館 チュルリョーニス展 内なる星図

●先日、東京春祭ディスカヴァリー・シリーズでリトアニアのチュルリョーニス(1875~1911)の曲を聴いたが、続いて国立西洋美術館の「チュルリョーニス展 内なる星図」へ。作曲家としても画家としても名を残した稀有な芸術家のふたつの顔を知る貴重な機会。上は今回の展覧会のキービジュアルとしても使われている「祭壇」(1909)。今回の展示のなかで、これが典型的な作風かといえばそうでもないと思うのだが、たしかに際立った一作。ピラミッドみたいな形状の巨大な祭壇で、てっぺんから煙が立ち昇る。コンクラーベみたい。この作品もそうだが、全般に神秘主義的傾向が強い。

●作曲家だけあって、音楽形式にちなんだ作品も多い。これは「第6ソナタ(星のソナタ):アレグロ」(1908)。本来4楽章の作品として構想されたが、アレグロとアンダンテの2点のみが描かれたという。こういった「ソナタ」だったり「前奏曲とフーガ」といった題を添えた絵がいくつもあるのだが、趣向に興味が持てるかというとそこは微妙なところ。ただ、これが連作の最初に配置されるアレグロ楽章だと言われれば、まあ、納得はできる。リズミカルで活発で、なにかが始まっている。ほとんどの作品はこういった彩度の低い色調。

●こちらは「第5ソナタ(海のソナタ):フィナーレ」(1908)。海がモチーフになっているのだが、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を参照しているのだとか。実は作曲家チュルリョーニスには交響詩「海」(1907)という作品もある。この曲は録音がいくつもあるので簡単に聴けるのだが(たとえばBISのモデスタス・ピトレナス指揮リトアニア国立交響楽団など)、会場でループで流される冒頭部分が、一瞬、ドビュッシーの「海」みたいでギクッとする。ただ、全曲を聴くとだいぶ違った手触りで、思い切り後期ロマン派のスタイル。こんなところにもワーグナーの影響が。

●これは「レックス(王)」(1909)。晩年の大作、といっても35歳で早世しているのだが。モチーフは地球、天上、城、太陽、星々、彗星など。世界を統べる王とその影ということなのか。これも神秘主義的。
カーチュン・ウォン指揮日本フィルのベートーヴェン「第九」マーラー版

●10日はサントリーホールでカーチュン・ウォン指揮日本フィル。プログラムは一曲のみ、ベートーヴェンの交響曲第9番。といってもふつうの「第九」ではなく、マーラー修正版の「第九」。すぐれた指揮者でもあったマーラーが当時の楽器の機能性や聴取環境に応じて「第九」のスコアに手を入れたもので、楽器編成は倍管、テューバ入りに拡大。ホルンは8本もある。大きく拡大されたメガ進化版「第九」。弦は16型、コントラバスは9だったと思う。ソプラノは森谷真理、メゾソプラノは林美智子、テノールは村上公太、バリトンは大西宇宙。さすがに独唱陣は増えていない。合唱は晋友会合唱団。130人くらいの大合唱。ステージ上の人が多く、視覚的にもベートーヴェンを聴くという雰囲気ではなく、マーラーを聴くかのよう。
●20世紀ロマンティック・ベートーヴェンが始まるのかと思いきや、いきなり冒頭のヴァイオリンがノン・ヴィブラート。マーラー時代のピリオド・アプローチみたいな発想もあるんだろうか。響きは分厚くパワフルで、金管楽器の比重高め。第1楽章で4人のクラリネットがベルアップするのが効果抜群。ところどころ独特のアーティキュレーションも。ただ、編成や編曲の違い以上に、カーチュンの指揮がもたらす違いを感じる。骨太の造形による筆圧の強い、たくましいベートーヴェン。
●今は原典主義の時代だけど、マーラーのように「ベートーヴェン時代の楽器ではできなかったことも今の楽器ならできるから、楽譜を修正しよう」という考え方のほうが発想としては自然だとは思う。時代とともに機能性が高まっているのだから上位互換と考えるのは、テクノロジーの世界ではふつうのこと。ドラクエだってリメイクしたら新しいハードウェアに合わせて旧作を修正するわけで、「ドラクエ2という作品がもたらすオーセンティックな緊張感を体験するためには、セーブデータをメモリに保存するのではなく『復活の呪文』方式にしてユーザーに慎重に書き写させるべき」というピリオド・アプローチは耳にしない。ただ、今の時代にベートーヴェンが生きていたら、きっと「第九」でシンセやエレキギターも使ってたはず、なんならボカロも絶対使うだろう、みたいなことを言い出すと際限がなくなる。なぜ音楽の場合は原典を尊重することが直感的に好ましいと思えるのか、答えは簡単ではない気がする。
イム・ユンチャン ピアノ・リサイタル

●8日は東京芸術劇場でイム・ユンチャンのピアノ・リサイタル。当初発表のプログラムは「幻想曲」をキーワードにしたショパン、シューベルト、シューマンからなるプログラムだったが、全面的に変更になり、前半にシューベルトのピアノ・ソナタ第17番(ガスタイナー)、後半にスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番、第3番、第4番。珍しい選曲。シューベルトとスクリャービン、少し不思議な組合せだが、遠くかけ離れているようで、どこかでつながっているのかも? こじらせ系とか。
●イム・ユンチャン、髪型がかわってポスターとはずいぶん違った風貌で登場。猫背気味でそそくさと登場し、脇目もふらずに鍵盤に向かう。閉じた雰囲気だが、いざ鍵盤に向かえば鬼神のようなテクニック。後半のスクリャービンが強烈。ソナタ第2番、第3番、第4番をまるでひとつの大曲のように、ほぼつなげて弾く。弾きたいものを思い切り弾いたといった様子で、じわじわと熱を帯びながら大爆発へと至るスクリャービンの暗黒祭。噴出するパッションは今だからこそできる音楽か。タッチは強靭だが、響きはくっきり輝かしい。
●客席は盛大な大喝采。前半のシューベルトの終わりから、ワーッと歓声があがっていたのだが、後半はさらに盛り上がっていた。即座に立ち上がるスタンディングオベーションなど、ふだんの演奏会とはだいぶ違った雰囲気。カーテンコールでは動画を撮っているお客さん多数。オペラグラス持参の方も。新時代のスターだ。アンコールにラフマニノフ「ヴォカリーズ」。
東京・春・音楽祭 ワーグナー「さまよえるオランダ人」演奏会形式

●7日は東京文化会館で「東京・春・音楽祭」のワーグナー「さまよえるオランダ人」演奏会形式。アレクサンダー・ソディ指揮N響。近年、ワーグナーシリーズといえばヤノフスキだったが、今回はソディ。歌手陣はカミラ・ニールンドのゼンタ、ミヒャエル・クプファー=ラデツキーのオランダ人、タレク・ナズミのダーラント、オッカ・フォン・デア・ダメラウのマリー、トーマス・エベンシュタインの舵手。合唱は東京オペラシンガーズ。休憩なしの上演方式。ゼンタのニールンドが絶唱。ダイナミクスの幅が史上最大レベルで、強靭さが最強に強まっていた(←強を一文で3回使うテスト)。演技なしの純然たる演奏会形式ということも手伝って、ゼンタが何物にも動じない超然としたキャラクターに思えてくる。人間的な苦悩を抱えたオランダ人よりよほど超越的。
●ソディとN響のコンビは期待以上。なにしろこれまでがヤノフスキの鉄壁のアンサンブルによる緊密なワーグナーだったので、それに比べると開放的でダイナミック。テンポが速く音楽が停滞しない点は同じだけど、勢いがあり、ここぞというところでエネルギーが噴出する。とくに第3幕はスペクタクル。合唱はパワフル。自分はなじみがなかったのだが、序曲と第3幕のおしまいは初稿が用いられていたそうで、第3幕の終わり方は唐突な感じ。
●休憩なしで2時間強。終盤、退席する人の姿がちらほら。客席の多くは年配男性なので、しかたがない。
●オランダ人には名前がない。本当はあるはずだけど、オペラでは一度も呼ばれない。これは名乗ることができない騎士ローエングリンと対になっていると思う。
東京芸術劇場新芸術監督 岡田利規(舞台芸術部門)&山田和樹(音楽部門)就任記者発表会

●1日は東京芸術劇場で新芸術監督の就任記者発表会。今年度から芸術監督は舞台芸術部門の岡田利規と音楽部門の山田和樹にふたり体制になる。登壇者は岡田利規、モナコからオンライン参加の山田和樹、東京芸術劇場の鈴木順子副館長。少し驚いたのは会場が地下1階のロワー広場だったこと。つまり、地下鉄の池袋駅から芸劇に行く際に通る地下のオープンスペース。衝立くらいは置くのかなと思ったら、なにもなくて、通りすがりの人も見聞きできる完全にオープンな環境で行われた。開かれた劇場を目指す姿勢を示したものと理解。
●舞台芸術部門の岡田利規さんは率直な語り口が印象的。まずは「芸術の力を疑ってかかることを基本姿勢としたい。それは芸術の力を信じているから」という逆説で話をはじめ、「公共による芸術の実践は、現実に対する応答でなければならない」「現実に対して舞台芸術で応答するというコンセプトを、どれだけ明確に実践できるのか。この課題を自分自身に対して課したい」と問題意識を表明しつつも、それが容易に達成できるテーマではないことを認める。問題を簡単な話に落とし込もうとしないところがいいなと思った。今、音楽界でも世界的に公的支援が縮小する方向にあり、社会のなかで音楽家がどういう役割を果たせるのかというテーマについて語られる機会は増えているとは思うんだけど、「現実に対する応答」として音楽芸術が語られる機会はとても少ないと感じるので、その意味では刺激的でもあった。
●さらに、こういう場では珍しい発言だけど、「職員の過酷な労働環境を改善したい」と明言。現場の職員とのコミュニケーションを重視し、すでに職員ひとりひとりと面談をしたのだとか。このあたりは現場で働く人々にとっては心強いことだと思う。
●音楽部門の山田和樹さんは、「音楽監督になっていちばん嬉しいのは、岡田さんといっしょに仕事をできること」。まだ詳細は発表されていないが、10月には岡田利規×山田和樹のコラボレーション企画も予定されている。岡田さんの労働改善環境の話を受けて、「私は逆で、もっと働いてほしい。人と金には限りがある。錬金術的な発想、アイディアが必要」と答えていたのも「らしい」ところ。もちろん、これは労働環境はどうでもいいという話ではなく、バーミンガム市交響楽団で予算がカットされて苦境に陥った自身の体験に基づいて、これからは従来にないような発想が求められるということを強調したかったのだろう。
●山田和樹さんも「社会に自分たちの存在意義を証明していかなければならない時代になった」と語り、「交響都市計画」というシリーズ企画を掲げる。「交響は英語にするとシンフォニックだけど、違うものを結びつけるという意味で、ハーモニーと訳したい」。その目玉企画が5月の水野修孝「交響的変容」。伝説的な超大作をよみがえらせる。
●岡田利規芸術監督就任記念公演として、「映画を撮りたいゾンビの演劇」が挙がっていた。この作品について自分はなにひとつ知らいないのだが、かねてよりゾンビ禍について探求してきた者としては、不定期連載「ゾンビと私」のためにも観ておくべきだろうか?
アンナ・プロハスカ with ジョヴァンニ・アントニーニ&イル・ジャルディーノ・アルモニコ

●4日はTOPPANホールでソプラノのアンナ・プロハスカとジョヴァンニ・アントニーニ(指揮とリコーダー)&イル・ジャルディーノ・アルモニコ。「蛇と炎」の副題が添えられていて、以前にリリースされた同コンビによる録音と同じ趣旨の選曲。バロック・オペラにおけるヒロイン役のアリアを中心としつつ、さまざまな楽曲が集められた凝った構成になっている。長いけど記録のためにもプログラムを書いておくと、パーセルの「ディドとエネアス」より序曲と「ああ、ベリンダ、私は苦悩に押しつぶされそう」、グラウプナーの「カルタゴの女王ディド」より「流れる水のせせらぎよ」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「愛したくなどない」、ロックの「テンペスト」組曲よりガリアード、リルク、カーテン・チューン、カストロヴィッラーリの「クレオパトラ」より「さらば王国よ、王位よ」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「私が望めば」、パーセルの「妖精の女王」よりシャコンヌ「中国の男女の踊り」、グラウプナーの「カルタゴの女王ディド」より「空はずしりと雷をたたえている……裏切りの愛の神は」「嵐にかき乱されて」、サンマルティーニのリコーダー協奏曲へ長調、ハッセの「見捨てられたディドーネ」より「嵐はもう始まっている」、ヘンデルの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「何ということ、神よ!……あなたの憐れみがなければ」、カステッロの4声のソナタ第15番、カヴァッリの「ディドーネ」より「誇り高きジェトゥーリの王よ」、ハッセの「マルカントニオとクレオパトラ」より「死の凄まじい形相に」、ロッシの「ルイージ氏のパッサカリア」、パーセルの「ディドとエネアス」より「この山は狩りの女神のお気に入り」「べリンダ、手を……私が地に伏すとき」。ふー、曲目一覧だけで560字あるから、紙媒体だったら載せられない!
●いろんな作品があるけど、中心となっているのはカルタゴの女王ディドとエジプトの女王クレオパトラ。つまり自ら炎に飛び込んで命を絶ったディドと、毒蛇に己を噛ませて死んだクレオパトラを合わせて「蛇と炎」セット。アンナ・プロハスカによる「女王様の七変化」ショーといった趣で、嘆いたり怒ったり誇ったりする。プロハスカは女王の貫録、強靭でもあり可憐でもある。さらにアントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコは鮮烈。キレッキレとヌルヌルの両極を自在に表現できて機動性抜群。コントラストをマックスに振った猛烈な感情表現。プロハスカが女王様なら、アントニーニは王子様……と呼ぶのは無理があるかもしれないが、そうたとえたくなるほどのカッコよさ。リコーダーだけではなくトラヴェルソも披露してくれて、縦笛でも横笛でも暴れ回るのは文字通りの縦横無尽だなと思った。サンマルティーニのリコーダー協奏曲がすごい。リコーダーでこんなに躍動感のある音楽を作り出せるとは。あと、ロックの「テンペスト」組曲で、決然としたリルクから、カーテン・チューンの祈るような優しい音楽に移る流れが鳥肌もの。アンコールは2曲、パーセルの「ディドとエネアス」より「あとの危険を恐れたもうな」、サルトリオの「エジプトのジューリオ・チェーザレ」より「私が望めば」。
●同コンビによるアルバム「蛇と炎」のリンクを貼っておこう。曲は完全に同一ではないけど、おおむね重なっているはず。
東京・春・音楽祭 東博でバッハ vol.78 小林海都(ピアノ)

●2日は東京国立博物館の平成館ラウンジで「東京・春・音楽祭」のミュージアム・コンサート「東博でバッハ vol.78 小林海都(ピアノ)」。プログラムがいい。前半にクルターグの「ピアノのための遊び」より「J.S.バッハへのオマージュ」、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻より第21番変ロ長調、第8番変ホ短調、第13番嬰ヘ長調、平均律クラヴィーア曲集第2巻より第4番嬰ハ短調、ラヴェルの「クープランの墓」よりフーガ、バッハのフランス組曲第3番ロ短調、後半にバッハのイギリス組曲第3番ト短調、ブゾーニ編の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番よりシャコンヌ。冒頭のクルターグは開幕のジングルみたいな短い曲。ラヴェルの「クープランの墓」のフーガをはさむ構成も効果的。
●夜の閉館後の博物館の雰囲気にふさわしく、全般に短調寄りの選曲。端正で格調高いバッハ。当初の発表からフランス組曲第3番とイギリス組曲第3番の順番が入れ替えられた。重めでシリアスなイギリス組曲を後ろに置いたということか。この日の圧巻はそのイギリス組曲第3番。次第に熱を帯びて、じわじわと高揚する。おしまいのブゾーニはバッハの宇宙を飛び出してロマン派ヴィルトゥオジティの別世界へ。アンコールにパルティータ第1番よりサラバンド。
●平成館ラウンジの響きは独特で、床からは音が強く反射する一方、天井側からの音の返りはほとんどなく、床の近くだけで鳴っている感じで、くぐもった骨太の響きになる。ピアノをきれいに響かせるのは難しい場所だけど、それでも東博という場には特別なオーラがある。閉館後の博物館に足を踏み入れるのはワクワクする体験。
●フランス組曲とイギリス組曲、どちらもバッハが名付けたものではないとはいえ、早くからこの名称は定着していたようだ。それぞれフランス風にもイギリス風にも感じない。フランス組曲というのなら第1曲に荘重なフランス風序曲が置かれていてもよさそうなものだが(管弦楽組曲のように)、6曲すべてがいきなりアルマンド(ドイツ風)から始まる謎。本当は6曲とも冒頭にフランス風序曲があったのに何者かが破棄してしまい現行の形で伝わった……というミステリーを空想する。イギリス組曲のほうは、フォルケルの伝記に「高名なイギリス人のために書かれた」と書かれている。これが本当だとしたら、フランス組曲も「高名なフランス人のために書かれた」でもよさそうなものだが、どうなんでしょね。
トヨタ・マスター・プレイヤーズ・ウィーンのベートーヴェン&メンデルスゾーン

●30日はサントリーホールでトヨタ・マスター・プレイヤーズ・ウィーン。フォルクハルト・シュトイデ率いる「ウィーン・フィルとウィーン国立歌劇場のメンバーを中心とした」指揮者なしの室内オーケストラ。全国各地を巡る8公演の初日。メンバー表を見ると、意外といろいろな団体に所属する人も多いのだが、それぞれなんらかの形でウィーンにゆかりがあるようで、共通の音楽文化を持つ人たちの集まりなんだと思う。最初の一音から「これは!」と思うような音が出てきて、ほとんどウィーン・フィル。来日オーケストラの公演として見るとかなりお得で、空席がもったいない。
●プログラムは前半がベートーヴェンのピアノとヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲(阪田知樹、フォルクハルト・シュトイデ、ペーテル・ソモダリ)、後半がメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と交響曲第4番「イタリア」 。ベートーヴェンは不思議な編成の曲のわりに、聴く機会は案外多い。名手、阪田知樹が参加。といってもピアノが前面に出るような曲ではないので、アンサンブルの一員としてともに雄大な音楽を作るといった感。指揮者がいないので、本当に大きな室内楽。後半のメンデルスゾーン、弦楽器の編成は54332だったと思うけど、そんなサイズでもサントリーホールの空間に豊麗な音が響くという不思議。弦が「薄い」感じがぜんぜんしない。指揮者はいないけど、しっかり型ができているといった様子で、安心して楽しめる老舗の味。「イタリア」はどんどんと熱を帯びて、気迫十分。みんながこの場の演奏を楽しんでいる様子が伝わってくる。
●コントラバスのミヒャエル・ブラーデラーから日本語で案内があって、アンコールにヨハン・シュトラウス2世のワルツ「芸術家の生涯」。本家ウィーン・フィルの公演と同様、本領発揮。
イングランド代表vs日本代表 親善試合
●代表ウィーク英国遠征第2戦は聖地ウェンブリー・スタジアムでのイングランド代表戦。W杯優勝候補と完全アウェイで戦う貴重な機会だが、な、なんと、勝ってしまったのだ、ニッポンが! イングランド 0対1 ニッポン。前回W杯から、ニッポンはスペイン、ドイツ、ブラジル、イングランドといったW杯優勝経験国に勝ったことになる。今回、イングランドにはハリー・ケインら主力にけが人が何人かいたが、ニッポンも遠藤、久保、南野らけが人が多数いたわけで、そこはイーブン。ちなみにイングランド代表監督はドイツの戦術家トーマス・トゥヘル。マインツ時代の岡崎慎司の監督だ。
●ニッポンは先日のスコットランド戦から大幅にメンバーを替えて、現時点でのベストメンバー。先発はGK:鈴木彩艶-DF:渡辺剛、谷口彰悟、伊藤洋輝-MF:佐野海舟、鎌田大地-堂安律、中村敬斗-伊東純也、三笘薫-FW:上田綺世。3-4-2-1というか3-2-4-1というか、ウィングバックにフォワード調の選手を置くいつもの攻撃的布陣なのだが、久保と南野が不在のため、2シャドーに伊東と三笘という、ふだんならウィングバックに入るサイドアタッカーをふたり置いたのが特徴。ウィングバックは堂安と中村。つまり2シャドーとウィングバックが完全に交換可能なのが特色で、流動的に入れ替わることができる。左サイドで三笘と中村が共存できることがわかったのは大きな収穫。これでボランチの一枚は鎌田で、そうなるとさすがにもう一枚はボール奪取能力が必要なので佐野海舟。布陣がスペクタクル。
●でも、相手は個の能力で勝るイングランド。序盤こそ精力的なハイプレスをかけたが、ボールは奪えず、ニッポンは無理せずミドルゾーンでコンパクトにブロックを敷く展開に。イングランドのボール保持率は66パーセント。体感的にはほとんどニッポンが守っていた。前半23分、三笘がボールを奪ってカウンターへ。左サイドを駆け上がった中村がドリブルで持ち込んで、中央にグランダーのクロスを入れ、これを三笘が落ち着いてゴール右下に流し込んでゴール。
●後半20分くらいまでは、ニッポンの組織的な守備がとてもよく、相手にボールを持たせながらも、自分たちのゲームをできていたと思う。イングランドはボールを持ち、シュートも多いのだが、実は枠内シュートがほとんどない。スタッツを見るとシュート21本を打って、枠内は3本。これはニッポンの守備の成功だと思う。ただ、後半20分すぎくらいからは様子が代わり、組織が機能しなくなり、耐えるだけの展開になってしまった。選手交代で瀬古 歩夢、小川航基、田中碧、鈴木淳之介、町野修斗、菅原由勢、鈴木唯人と投入されたのだが、クオリティは下がった。やっとボールを奪っても、前で収める選手がおらず、すぐにまた守備が続く苦しい展開で、終盤はほとんどギャンブル。
●ともあれ、イングランド相手にニッポンは初めて勝利できた。イングランドがアジア相手に負けたのは初めてなのだとか。さすがにここまで結果を残し続ければ、どんな強豪国も今のニッポンを簡単な相手だとは思わなくなるだろう。
METライブビューイング ベッリーニ「清教徒」(チャールズ・エドワーズ演出)
●27日は東劇でMETライブビューイング、ベッリーニの「清教徒」。演出はチャールズ・エドワーズ。METでは50年ぶりとなる新演出だとか。名作とされるわりに実演で聴く機会の少ない名作だが、このオペラのストーリーはどれくらい知られているだろうか。舞台は17世紀、内戦下のイギリス。清教徒側の娘エルヴィーラは王党派の騎士アルトゥーロと愛し合っており、これから結婚式を挙げようというところで、アルトゥーロは捕らわれていた王妃を助け出すために彼女を花嫁に変装させて逃亡する。アルトゥーロに裏切られたと思ったエルヴィーラは発狂する。このふたりの関係に、エルヴィーラに想いを寄せる清教徒側のリッカルドの思惑がからむ。こうして書いていてもわかりやすく書くのはなかなか難しいと感じるのだが、台本ははなはだ粗削りで、自分が劇場監督だったら赤字で真っ赤にして突き返すと思う。が、ベッリーニの音楽はきわめて洗練されており、優雅。抒情的な楽想が無尽蔵にわき出てくるといった様子で、なるほど、ショパンが魅了され、影響を受けたのはこれかと思う。物語より音楽が圧倒的に優位にある。
●歌手陣はエルヴィーラ役のリセット・オロペーサ(オロペサ)が圧巻。声の超絶技巧をたっぷりと。アルトゥーロ役のローレンス・ブラウンリーは、先日の新国立劇場「リゴレット」で公爵役を歌ってくれたばかり。声の甘さ、高音域での余裕が印象的。指揮はマルコ・アルミリアート。録音だから正確にはわからないけど、たぶん歌手にやさしくオーケストラをコントロール。演出はチャールズ・エドワーズ。全般にシリアスすぎるのと、独自のアイディアであるエルヴィーラを画家とみなす趣向が無理筋だと思ったが、舞台美術は荘重ですばらしい。あのエンディングはどう解したらいいんでしょうね。ハッピーエンドを嫌ったのか、どうか。
●これでベッリーニの三大傑作、「清教徒」「ノルマ」「夢遊病の女」をすべてMETライブビューイングで観たことになる。映画館なので、ライブとはまったく違ったリラックスしたモードで観に行けるのが大吉。