●これは驚きの一冊。デイヴィッド・ケーニッヒ著「刑事コロンボとピーター・フォーク その誕生から終幕まで」(町田暁雄著/白須清美訳/原書房)。ミステリドラマの大傑作、「刑事コロンボ」シリーズがいかにして誕生し、ひとつひとつのエピソードがどう作られたかをたどる。著者はもちろん「刑事コロンボ」の大ファンであるわけだが、秀逸なのはこれがファンブックにはなっておらず、丹念な取材と一次資料をもとにひたすら事実を追いかけているという点。よくもまあ、ここまで個々のエピソードの成立を克明に追いかけられたものと感心するばかり。自分はごく普通の「刑事コロンボ」好きであって、熱心なファンとは言えないが、それでも読みだすと止まらなくなる。
●とくに一本一本を作る制作過程が興味深い。この業界ではそれが常識なのかもしれないけど、だれかのメモ書き程度のアイディアから始まって、脚本家が書いて、別の脚本家が書き直して、脚本家じゃないだれかが書き足したり削ったりして、長いプロセスをたどって撮影まで行く。と思えば、撮影現場でさらに書き直しがあったり。だれをプロデューサーにするのか、監督はだれを雇うのか、キャスティングはどうするのか、音楽をだれにするのか、人の出入りが激しい。最初期にスティーヴン・スピルバーグが一回だけ監督を務めているのは有名な話だけど、いろんな人がやってきては去ってゆく。でも、コロンボ役のピーター・フォークだけは変わらないし、変えられない。
●で、誕生した当初は「刑事コロンボ」は原作者のリチャード・レビンソンとウィリアム・リンクのものだったと思う。それが進むにつれて、ギャラの高騰とともにピーター・フォークのものに変わってゆく。途中からはピーター・フォークが全権を握って、気に入らないシーンがあれば何度でも撮り直し、製作費も膨れ上がってゆく。スタイルを確立し、ファンが定着し、勢いのある時代が続いた後は、ゆっくりと下り坂を降りていく。終盤の作品はあまり記憶に残っていないんだけど、ある頃からコロンボの老いが目立ってきたのは覚えている。かつての盟友たちが次第に引退し、人が少しずついなくなり、やがてピーター・フォークが取り残されるような雰囲気になるのが味わい深い。
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●18日(月)の当欄はお休みです。お盆休み。
Booksの最近のブログ記事
「刑事コロンボとピーター・フォーク その誕生から終幕まで」
「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(アンディ・ウィアー著)
●同じ著者の前作「火星の人」に感心したので、この「プロジェクト・ヘイル・メアリー」(アンディ・ウィアー著/小野田和子訳/早川書房)も大いに気になってはいたのだが、ようやくKindleで読んだ。もうびっくりするほどおもしろい。伝統的なスタイルの純然たるSF小説、つまりサイエンスフィクションの「サイエンス」の部分がストーリーの核心をなしているのだが、それでいて万人向けの上質なエンタテインメントになっている。ジャンル小説としてこれ以上は望めないくらい完璧。上巻の途中で予想外のダイナミックな展開が起きて、思わず「うおぉ!」と声が出た。
●物語は主人公が宇宙船のなかで目を覚ますところから始まる。長期の睡眠で記憶が曖昧になっているのだが、次第に自分のミッションを思い出す。全人類に深刻な危機を及ぼすある種の環境問題を解決するために、恒星間宇宙船に乗っているのだ……。その先の展開はあらすじすら紹介できない。巻末の解説でもしっかり配慮されているのだが、そこらのレビューとか紹介文は遠慮なくネタを割っている可能性が高いので、これ以上なにも知らないまま読むのが吉。圧倒的に。
●かなり物理や化学に強くないとこの話は書けないと思う。アイディアも思いつかないし、思いついたところで自信を持って書き進められない。
●読み終えた後に、いちばんいいシーンを読み返して反芻している。やっぱり上巻のあの場面だな。
「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著)が文庫化
●これは青春小説の名作だと思う。シリーズ累計135万部(!)を突破した2024年本屋大賞受賞作ということで、今さら紹介するまでもないが、「成瀬は天下を取りにいく」(宮島未奈著/新潮文庫)はとてもよい。連作短編集の形をとっており、滋賀県大津市に住むヒロイン、成瀬あかりの中学2年生から高校3年生までのエピソードが描かれる。成瀬は自分をナチュラルに信じることができる人間で、やりたいと思ったことをなんでもやってしまう。とてもまっすぐで優秀な子で、他人の目を一切気にしない。特徴的なのは各ストーリーごとに視点が入れ替わり、周囲の人物から見た成瀬が描かれるところ。成瀬は常に他者から見つめられる存在で、本人の内面は一貫して描かれない。そこがいい。読後感は爽やか。子どもは子どもの読み方で、大人は大人の読み方で楽しめる。
●で、クラシック音楽ファン的に見逃せないのは、これが膳所(ぜぜ)を舞台にした物語であるところで、膳所で思い出すのはびわ湖ホール。びわ湖ホールはJR膳所駅から徒歩圏内。駅を出ると、小説の舞台にもなったときめき坂だ。びわ湖ホールに向かう途中にあるショッピングセンター、Oh!Me大津テラスの食料品売り場、フレンドマートで成瀬がアルバイトをしていたという設定。惜しい、一昨年、びわ湖ホールに遠征した際には、まだこの本を読んでおらず、Oh!Me大津テラスには立ち寄ったものの、食料品売り場には行かなかった。今だったら、聖地巡礼できたのに!
●続編の「成瀬は信じた道をいく」もおもしろい。成瀬は大学生になる。フレンドマートにやってくるクレーマー主婦と成瀬の交流が秀逸だと思った。
「フリアとシナリオライター」(マリオ・バルガス=リョサ著/野谷文昭訳/河出文庫)
●未読だったバルガス=リョサの「フリアとシナリオライター」(野谷文昭訳/河出文庫)を読む。夏に岩波文庫から「世界終末戦争」が刊行されると聞き、その前に軽く読めそうなものを一冊と思って。いやー、怖いくらいに傑作。こういう軽快なタッチの小説を書いても、やっぱりバルガス=リョサは偉大だ。後にノーベル文学賞を受賞する(そしてペルー大統領選に出馬してフジモリに敗れる)作家の半自伝的青春小説。主人公はラジオ局で働く作家志望の大学生で、義理の叔母であるフリアとの恋がストーリーの軸になっている。フリアは実在の人物で、このロマンスは実話なんだとか。びっくり。
●が、ロマンスだけではバルガス=リョサの小説にはならないわけで、主人公のストーリーが描かれるのは奇数章だけ。偶数章ではぜんぜん関係のない奇想天外な物語が混入してくる。これが妙に通俗的で、でもやたらとおもしろい。なんなんだこれはと思って読み進めていると、やがてこれらのサブストーリーは、登場人物のひとりである天才シナリオライターが書いているラジオ劇場なのだと気づく。一種の枠物語なんである。で、この天才シナリオライターがまたとびきりの奇人で、やはり実在のモデルがいるのだとか。メタフィクション的な仕掛けを施し、さらに作家志望の主人公と奇人のシナリオライターというふたりの物書きを登場させることで、これは「書くことについての物語」になっている。
●そういえば「都会と犬ども」(街と犬たち)でも章ごとに複数の視点が使い分けられ、そのなかで一人称の「僕」がだれなのかわからないまま進むという趣向がとられていた。あれに比べればシンプルだが、「フリアとシナリオライター」でも語りの構造のおもしろさは健在。
●笑ったのは、放送局がラジオ劇場の台本を目方で買っていたというくだり。70キロもの紙の束を読めるはずがないから、中身なんか読まずに台本を買う。読まないのだから、中身の質もわからないし、単語数やページ数を数えることもできない。だから牛肉やバターのように目方で原稿を買うというわけ。
●関連する過去記事
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3
「緑の家」(バルガス=リョサ著)
バルガス・リョサ vs バルガス・ジョサ vs バルガス=リョサ
「方舟」(夕木春央)
●話題を呼んだミステリー小説、夕木春央著「方舟」(講談社文庫)を遅ればせながら読む。えっ、これってこんな話だったんだ、と読後に茫然。形式的にはまったく古典的なミステリーになっている。外部との連絡がつかない空間に総勢11人が閉じ込められる。そこに殺人事件が起きる。この中にだれか必ず犯人がいるはず……という状況。さらに閉ざされた空間から脱出するためには、だれかひとりが犠牲にならなければならないという条件が加わる。登場人物のひとりが探偵役となって、犯人探しが進む……。
●という、あらすじを知って、最初はなんだかイヤな話だなと思って、スルーしてしまったのだ。が、あまりに評判が良いので読んでみたら、抜群におもしろい。イヤな話なんだけどイヤじゃないともいえるし、イヤじゃないけどイヤな話とも言える(どっちなんだ)。
●これって、オペラにも通じるんだけど、様式化されていれば悲惨な話も読める、ってことだと思うんすよね。つまり、オペラって、ひどい事件ばかり起きるじゃないすか。もしオペラの描写がすごくリアルだったら、ワーグナーとかヴェルディみたいに次々と人が命を落とす作品なんて、後味が悪すぎて絶対に観てられない。でもオペラっていう形に様式化されているから、陰惨な話でも受け入れられる。それと同じで、ミステリーっていうジャンル小説内に描写が留まっていれば、殺人事件も読書の楽しみのなかに収まる。なので、古典的な様式というものはちゃんと目的があって使われるのだな、というのが最大の感想。
最近の音楽書から──「世界史×音楽史 知っておきたい! 近代ヨーロッパ史とクラシック音楽」「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」「三月一一日のシューベルト 音楽批評の試み」
●音楽書の話題をいくつか。先日、ラ・フォル・ジュルネTOKYOの会場で広瀬大介さん、飯田有抄さんにたまたま会ったら、おふたりとも近著を持参していて「どうぞ」と渡してくれたのだ。えっ、いいんですか……っていうか、そんなうまい具合に持ち歩いているもの? 何冊もカバンに忍ばせてあったりするのだろうか。
●「世界史×音楽史 知っておきたい! 近代ヨーロッパ史とクラシック音楽」(広瀬大介著/音楽之友社)は、音楽の歴史を世界史の流れのなかでとらえ直す一冊。書名に近代ヨーロッパ史とあるように、第1章「啓蒙主義時代」から始まって、第9章「二つの世界大戦と作曲家」で終わる。で、最初から読んでもよかったんだけど、気になったので、まず最後の章を読んだ。ショスタコーヴィチとかブリテンとかバーンスタインの話を読みたかったので。バーンスタインは「キャンディード」がとりあげられていて、これが本書のおしまい。その後、第1章「啓蒙主義時代」に戻って読みはじめたら、ヴォルテールの「カンディード」の話が出てきて、「あっ、この本って最初と最後がつながるんだ」と先に気づいた(堂々とネタバレ)。
●こういう題材だと教科書的な記述になりがちなんだけど、この本はちゃんと読み物として、ページをめくりたくなるように書かれている。どういうことかっていうと、教科書とか講義みたいなものは受け手の側に「学ばなきゃいけない」「聴講しなければいけない」という義務が自然発生しているけど、一般の書籍はそうではない。読者の側は退屈したらいつでもパタンと本を閉じてサヨナラできる。常に読者がNGを出す側で、書き手は出される側。だから読者に「その先を読みたいな」っていう好奇心を抱かせ続けなければいけないのだが、そこに成功していると思う。あと、ライター目線でいえば、「です・ます」体の文章が見事。「です・ます」体は「だ・である」体よりも格段に難しいのだが(本当に)、お手本になる。
●「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」(飯田有抄著/音楽之友社)は、小・中学生向けの入門書。一見、柔らかそうな体裁だが、実はこれは野心作だと思う。ふつうならイラストやマンガの助けを借りて読ませるところを、この本はとことん文章を読ませるのだ。文章量は子供向けとしてはかなり多い。これは目から鱗で、本好きの小学生はほとんどの大人より本をたくさん読むし、文章を読むのが大好き。本好きの子供に届く一冊だと思う。内容的にも、子供向けの体裁ながら(総ルビ)、実は大人向けの入門書としても立派に機能している。
●同じ版元つながりで、もう一冊。少し発売から時間が経ってしまったが、「三月一一日のシューベルト 音楽批評の試み」(舩木篤也著/音楽之友社)。著者と担当編集者の二人三脚から生まれた渾身の一冊で、月刊誌「レコード芸術」の連載「コントラプンクテ 音楽の日月」を大幅に加筆して単行本化したもの。装幀からして相当なこだわりが伝わってくるが、中身も骨太。これが本来の音楽評論というものだろう。「レコ芸」だからできた連載だったはずで、かつての吉田秀和連載を思い出しながら読んだ。どの章も読みごたえがあるのだが、「メメント・モリ ブラームスと永続性」の章がとくにすごい。これが舩木さん初の単著だというのが意外だったけど、これ以上ない形で著書が出たのでは。今、こういった本はなかなか出せない。
「ヴィクトリア朝時代のインターネット」(トム・スタンデージ)
●これはとてもおもしろかった。トム・スタンデージ著の「ヴィクトリア朝時代のインターネット」(服部桂訳/ハヤカワ文庫NF)。長らく入手困難だったネット業界のカルト的名著が文庫化されて復活。書名を見て「?」となるが、もちろんヴィクトリア朝時代にインターネットはない。が、ある意味でその前身とでも言えるテクノロジー、すなわち電信(テレグラフ)が発明された。モールス信号のトンとツーの2ビットで情報を伝えるという技術は、デジタル通信そのもの。その電信の発明史を記したのが本書。19世紀に即時的に情報を伝える高速ネットワークが発達したという歴史が自分にはまったく見えていなかったので、ワクワクしながら読んだ。そしてこの高速ネットワークに対して、インターネットが世に現れたときとそっくりの反応が起きているのがおもしろい。新しいテクノロジーの途方もない可能性に気づいた先駆者たちが熱狂する一方、世間の理解はなかなか追いつかない。だが、電信がもたらす圧倒的な情報伝達の速度が、戦争やビジネスにおいて決定的な優位を生むことが次第に明らかになってゆく。情報という観点からすると、世界は急速に狭くなったわけだが、これに抵抗を示したのが外交官だったという話も印象的だった。
外交官は伝統的に事にあたっては、ゆっくりと慎重な対応をすることを好んでいたが、電信は即時に反応することを促すので、「これがわれわれの仕事に非常に望ましいことなのかどうかわからない」とクリミア戦争時の英国の外交官エドモンド・ハモンドは警告を発している。彼は外交官が結局は「本当はもっといい考えがあるのに、用意もないままに対応してしまう」ことを恐れていた。
●メールとかメッセージアプリに「即レス」を求められる現代のビジネスマンの姿が重なって見える。
●新しい技術を利用した詐欺が考案されたり、電信のオペレーターが通信を通じて交際して結ばれる「ネット婚」があったり、暗号の開発がありハッカーによる解読があるといった展開は、インターネット時代とまさしく瓜二つ。ワタシたちのインターネットって「2周目」だったんだ、とすら感じる。
「わたしたちの怪獣」(久永実木彦)
●最近読んだ小説のなかで抜群におもしろいと思ったのが、「わたしたちの怪獣」 (久永実木彦著/創元SF文庫)。4篇からなる短篇集だが、すべてが傑作だと思った。表題作「わたしたちの怪獣」では、父と姉妹の3人家族の間に起きたある事件と、東京湾に巨大怪獣が出現する災厄が交叉する。怪獣はしばしば自然災害のメタファーとして描かれるが、ここでは怪獣に父の姿が投影される。学校の国語の教科書に載せるべき怪獣小説の金字塔だと思う。
●表題作だけでも秀逸なのだが、さらに気に入ったのが「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」。タイムトラベルが実現した未来で、起きてしまった災害や事故をなかったことにするために時間局が設立され、主人公はその職員として働いている。過去を改変して、災害や事故を未然に防ぐのだ。古典的な物語なら主人公はヒーローだが、この物語での時間局の職員は誰にでもできる仕事をこなす底辺労働者でしかない。労働者小説でもあり、純然たる時間SFでもある。未来から現在に戻る際に、個室トイレのような仕切られた小空間が必要という設定がおかしい。
●「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」はゾンビ小説。真っ赤な頭のゾンビたちが豊島区方面から走ってくる。全力疾走するタイプのゾンビだ。「ゾンビ」映画の古典、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」では主人公らはショッピングモールに留まるが、この小説では映画館に立てこもる。